東京ゲーテ記念館のこと
――粉川忠生誕百年の折に(2007年記)


 財団法人東京ゲーテ記念館は、一九四九年、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの生誕一〇〇年を記念して財団法人として出発しました。当時の名称は、「東京ゲーテ協会」で、戦後、財団法人の制度が発足してからかなり早い時期に申請・認可された団体だと思います。

 公的には団体として社会的な活動をしてきたわけですが、創立者の粉川忠がある時期までほとんど独力で築いた形式と蓄積とに依存しているので、ここでは、粉川忠についてまだ一般には知られていない側面を紹介しておきましょう。

 粉川忠は、阿刀田高氏の『ナポレオン狂』と『夜の旅人』という二冊の小説のモデルとして、ゲーテ本の「コレクター」という印象が定着していますが、これは、正しくはありません。自分で本を探し求めて買い集めたわけですから、本の収集に興味がなかったとはいえませんが、財団発足後の活動は、彼の収集趣味の継続や拡大ではなく、非常に組織的なものでした。

 おそらく、粉川忠の興味は、収集よりもむしろ整理と分類にあったようです。ゲーテの本と資料を精力的に集めたのは、ある意味で、それらを整理し、分類するためでした。このことを歴然と示しているのは、一九世紀に出版され、ゲーテ自身が校閲している最初の「ゲーテ全集」に貼られた図書ラベルです。図書館としては、蔵書にラベルに貼るのはあたりまえです。しかし、もし彼が「コレクター」であったら、決して安くはなかったであろう稀覯本にありきたりの図書ラベルをべたべたと貼るでしょうか? しかもこれは、財団発足以前の私的な「粉川ゲーテ文庫」の時代のことです。

 こうした態度は一貫しており、たとえば、大正六年(一九一七年)に出た雑誌『都市と藝術』の背表紙には、マジックで「成瀬無極」と記されています。これは、この雑誌のなかで成瀬無極がゲーテについて書いているという意味であり、著者名別で分類している書架に返却しやすくするためです。この雑誌も、一九五〇年代になって入手したもので、どこにでもあるという古雑誌ではありません。「コレクター」ならば、こんなことはしないでしょう。

 通説では、粉川忠は、幼いとき祖父に水戸の彰考館文庫に連れていかれた経験から、非常に早い時期に「将来自分は資料館をつくるんだ」と決心したとされています。それは、晩年、本人自身が雑誌や新聞で発言していることでもありますが、残された日記やノートを調べると、それは事実ではないことがわかります。図書館や資料館への関心は、大分あとになって生まれた――というよりも、それらは彼の関心の一部であって、もっと広い、図書館が単にその一部であるにすぎないような事業が本命だったようです。

 財団発足当初にデザイナーに作らせたと思われる「東京ゲーテ協会事業部案内」という図版がありますが、そこでは、「研究所」、「ゲーテ図書館」、「出版」、「学資補助」の活動を展開し、「世界文化に!」貢献することが明記されています。

 東京ゲーテ協会は、一九五〇年代のある時期まで、粉川忠と妻きぬよが運営していた味噌機械の製造販売会社と一体をなしていました。つまり財団の名で収益事業を行ない、その収益を上述の諸事業にふりむけていたわけです。しかし、当時の不備な財団制度を悪用する者が出てきたためか、監督官庁から指導があり、営利事業の部門が切り離されることになりました。これは、東京ゲーテ協会にとっては、痛手であり、大きな転機となったはずです。

 この時期の財団再編成についていま詳細に立ち入ることはできませんが、こうした危機・転機に直面した財団が選ぶ最も安易な道(それが監督官庁のねらいでもあったわけですが)は、天下りの役人を役員にし、寄付を得やすくすることでした。これは、粉川忠が最も嫌う方策でした。弟の粉川清が大蔵省から銀行に天下るのをつぶさに見ていたからでしょうか、そういう方法を取れば、彼がめざす活動が行きづまってしまうだろうということを直感したようです。天下りの是非はともかく、寄付をもらうということが、当時の日本では、「金を出せば口も出す」につながり、少数の人間たちの非営利(というより持ちだしの)の活動によって維持されている文化事業にとっては、マイナス以外のなにものでもないと思われたのでしょう。

 もし、この時代に、「営利」事業をそのまま続けることができたなら、ひょっとして「東京ゲーテ協会」は、それから三〇年もたって多くの大企業が始めたメセナ的な文化事業を財団として行なえたかもしれません。

 粉川忠が選んだ道は、私的な事業で得た利益を財団にさまざまな形で「寄付」し、その財源で事業を行なうことでした。そのためには、財団の活動を極力狭めることが必要になったわけであり、その結果が、ゲーテ文献を中心とした資料館としての道でした。その意味では、自分が「子供のころから図書館を作ろうと思っていた」というのは、自分をあきらめさせるためにあとで思いついた呪文のようなものだったのかもしれません。

 一九四九年のゲーテ生誕一〇〇年には、日本独文学会が祝賀の催しと展覧会を行ないましたが、東京ゲーテ協会は、それに文献や資料を提供しました。すでに、粉川忠は、独文の学者たちとは交流があり、一九五二年に北区上中里から渋谷区上通(現、神泉)に移転し、スペースが広くなってからは、多くの学者、学生などが文献を利用しに来ました。しかし、当時は、資料の「一般公開」はしていなかったので、利用者は、粉川の私的な関係を通じて来る利用者にかぎられていました。

 それが変わったのは、一九六一年の『朝日ジャーナル』誌(6・11号)に高津幸男氏が書いた「ここに生きる ゲーテ収集家」からでした。これは、同誌の「ここに生きる」というシリーズの一つとして粉川忠を取り上げたものでしたが、高津氏は、独文学者あたりから粉川のことを聞き、取材に訪れたようです。当時、見知らぬ人間をぶらりと訪ねることはごく普通であり、氏もそういう形でやってきて、すぐに取材をされたようです。

 反響はたしかにあり、学者でない人たちが文献を見にやってくるようになりました。この記事を読んではるばると九州から「家出するかのように」やってきて、以後数十年にわたって文献整理を手伝い、ゲーテ文献情報のほぼ専門家になってしまった斉藤陽子氏のような人もいました。

 日本において、ゲーテは不思議な存在で、とりわけ「旧制高校」出身の世代には熱烈なゲーテ愛好者がいました。これは、ゲーテが、日本では明治大正の「脱亜入欧的な近代化」の代表的なシンボルであったからで、日本におけるこの「ゲーテ」への情熱的な関心は、「もはや外国から学ぶものはない」なとどいうことが言われはじめる一九七〇年代まで続きます。

 面白いのは、このような形での「マスコミ・デビュー」を、粉川忠の妻で、理事として「番頭」役をつとめてきたきぬよがあまり喜ばなかったことでしょう。記事そのものは、力のこもったもので、高津氏のジャーナリストとしてのすぐれた素質が見える文章ですが、きぬよは、この「つつましくやっていかなければ、こわれてしまう」事業がマスコミで喧伝されたことによって、実質とは無関係の仕事がふえるのを懸念したようです。一九六四年に渋谷の新館が落成し、大々的にマスコミにとりあげられてときも、また、阿刀田氏の小説のモデルになったときも、彼女は、くりかえし「否定の弁証法」を浴びせていました。それは、むしろ、粉川忠の「反抗心」をかきたて、彼女が批判した「虚名」をむしろ求めるようにもなりました。

 事業をぶちあげる者は、誰でも、ロマンがあり、夢があり、功名心もあるわけですが、粉川忠も、そろそろ世の中に「東京ゲーテ協会」を創った自分を認めてもらいたいという気持ちになっていました。しかし、一九世紀生まれで七歳上の妻は、恐ろしく「禁欲的」で、ロマンよりもリアル、夢よりも現実を愛したようです。おおむね、事業はそのような対立するカップルで続くのですが、内部から見ると、それはなかなかスリリングなものでした。

 粉川忠の場合、もともとは数学者になりたかったのが果たせなかったという屈折があり、それが、ゲーテ文献の整理と分類(そのために収集する!)へと向わせたのですが、彼が数学者になれなかったのは、家族的な諸事情もあるとはいえ、彼のなかに、学者的な気質よりも事業家的なロマン主義があったためだと思います。

 ですから、文献の整理と分類への関心は、すぐさま「壮大」なものとなり、一九六〇年代には早くも、コンピュータによる文献整理ということにも関心を持っていました。まだパソコン以前の時代ですから、弱小の図書館がコンピュータを入れるなどということは無理ですし、大きな図書館でもまだ導入していなかったわけですが、「ビジネスショー」が開かれると、普段は本屋ぐらいしか行かない彼が、意気揚揚として出かけて行ったものです。会場で技術者と長話をしたが、いまの技術では、自分が構築した「ゲーテ十進分類法」をコンピュータ化するのは無理だといって、一面がっかりしながら、他面ではやや自慢顔でした。

 むろん、いまでは、パソコンで本一冊を全文検索できる時代ですから、ゲーテのキーワード、テーマ、出典等々を詳細に分類した彼の「ゲーテ十進分類法」は、不要になりつつあります。ただし、千以上のテーマと文献とを関連づけた膨大な図書カードは、ゲーテについて調べる場合にも、論文を書く場合にも非常に便利であり、研究者がよく利用しています。

 東京ゲーテ協会は、一九八八年に渋谷区から北区に移り、四度目の建物に入り、名称も「東京ゲーテ記念館」とあらためました。展示スペースをもうけ、「図書館」としての活動だけでなく、当初めざしていた「文化活動」的な要素にも意をくばるようになりました。

 一九九〇年から九四年まで当館が主催した「ゲーテ・アート・プロジェクト」は、現代アートの世界にも刺激を投じました。限られた予算とスタッフでこうした企画を続けるのは容易ではありませんが、今後もこうした方向にもチャレンジしたいと願っています。
ただ、欧米の財団とはことなる日本の制度のなかでは、独自なことを展開することがなかなかむずかしく、依然として「図書館」としての活動に限定せざるをえません。二〇〇八年度から新しい公益法人制度に移行しますが、基本的に「公」が「私」化する方向へシフトしつつある現状では、財団が夢のある文化事業を展開することはますます難しくなるような気がします。

粉川哲夫(東京ゲーテ記念館理事長)


『学士会会報』867号(2007年11月1日発行)より転載