Q: 新村出編『広辞苑』の序文に、「ゲーテの箴言にもあるがごとき、誤るは人のつね、容るすは神のみち」とありますが、この言葉は、ゲーテがどこで言っているのでしょうか?

A:

新村出氏のような碩学に失礼かもしれませんが、この言葉は、ゲーテではなく、アレグザンダー・ポープのものです。ポープは、彼のAn Essay on Criticism (1711) のなかで、ずばり"To err is human, to forgive divine."(誤るのは人間、許すのは神)と言っているからです。

なお、ゲーテの『ファウスト』第1部の「天井の序曲」にある「主」(Der Herr)の台詞 “Es irrt der Mensch, so lang er strebt.” は、直訳すると、「人間は、努力するかぎり、誤るものだ」となりますから、これをもって、「ゲーテの箴言にもあるがごとき」と言ってもよいのかもしれません。ゲーテは、ポープを読んでおり、言及もありますから、ポープに触発されてこの台詞言葉を思いついたのかもしれません。

ただし、『ファウスト』のこの個所は、通常、「誤る」ではなく、「迷う」と訳されていますので、話がやっかいになります。

『ファウスト』のこの部分を「迷い」と訳すようになったのは、森林太郎訳(1913年)からです。このために、英語のerrとドイツ語のirrenとの同根性は見えなくなり、ゲーテの『ファウスト』の言葉からポープの "To err is human" を想起する手立てはなくなりました。

日本でFAUSTを初めて全訳したのは高橋五郎ですが、彼の訳(1904年)では、この部分は、「げ〔寔〕に人やふるひすす〔奮進〕む間は躓かざるを得ず」と訳されています。

また、1912年刊行の町井正路の訳では、「人間と云うものは慾望の旺んな内は、兎角過失に陥り易いものだ」となっています。つまり、鴎外以前は、「迷う」ではなく、「躓き」や「誤り」の意味に訳されており、原文に意味が近いということになります。

鴎外が、irrtを「迷う」と訳したのは、おそらく、1902年にAlbert G. Lathamが発表した英訳を参考にしたからではないかと思います。それ以前の訳では、"Man, while he striveth, still is prone to err."(Anna Swanwick訳)等と"err"を活かした訳になっていたのを、Lathamは、"Whilst still man strives, still must he stray"と訳しました。

鴎外としては、strayという言葉がトレンディだと思ったのではないでしょうか? 鴎外や漱石の時代には「ストレイシープ」という言葉は独特の意味で受け取られていましたね。

ただし、ここにも、言語文化の違いという問題が介在します。英語の"err"やドイツ語の"irren"の語源は英語の"astray"と同根だとのことです。つまり、err、irren、astray、さらにはstrayのあいだには、日本語の「誤り」と「迷い」とのあいだにあるほどのギャップはないのです。

その意味では、Lathamのstrayを日本語の「迷う」で訳すのは、必ずしも適切ではなかったかもしれません。しかし、翻訳は、一旦定着すると一人歩きをし始めます。「人間は迷うものだ」も例外ではありません。この言葉の「迷い」は、大正ロマンティシズムと手を取り合って、ロマンティックな含意を膨らませました。そして、ゲーテの原文にはあった「善か悪か」「白か黒か」といったに二者択一と決断の責任決定の姿勢はどこかに消え失せ、日本的な逡巡や迷いや求道の、際限のない不決断の意味に移行したのだと思います。「人は努力するかぎり迷うものだ」は、完全に原文を離れ、日本独特の意味を帯びるようになりました。

こうなると、訳の変更は難しくなるわけで、鴎外以降、『ファウスト』は数多く訳されましたが、99%が「迷う」で訳しています。近年の訳で若干ニュアンスを付けたのが、柴田翔訳(講談社)で、彼は、「求めつづけている限り、人間は踏み迷うものだ」と訳しています。「迷う」と「踏み迷う」とは大分違います。悧巧な折衷路線で行ったわけです。

なお、現在ポケットブックで流布している英語版FAUSTでは、この個所は、"For man must strive, and striving he must err."(Penguin Books, tr. Philip Wayne)と、"err"で訳されています。

長々と書いてしまいましたが、そんなわけで、結論的には、新村氏は、「ポープやゲーテの箴言にもあるごとき・・・」とでも書いておけばよかったのでした。


東京ゲーテ記念館