そこで、「わたしはもう何の役にも立ちません」という日本語表現を、シュタイン夫人への手紙が載っている日本語の訳本を機械的に調べてみますと、橋本清秀・著『青春の手紙文』(愛隆堂、昭和28年、p.209以下)のなかで次の文章が見つかりました。
私があなたと生活していけないならば、あなたの愛情は、今ここにいない人々の愛情と同じく、私にはなんの役にも立ちません。
この「私にはなんの役にも立ちません」の「私には」の「に」を取れば、お問い合わせの言葉になります。ただし、訳文は、ゲーテが「何の役にも立たない」のではなく、シュタイン夫人の愛が「何の役にも立たない」というわけですから、意味が違います。
この手紙は、シュタイン夫人へゲーテが宛てた1776年5月24日の手紙として、よく引用され、翻訳も数種類(潮出版『ゲーテ全集 14』等)あります。しかし、この年、ゲーテはまだ27歳(8月生まれなので)ですから、お問い合わせの「34歳」とは適合しません。
しばしば、「名言」は、偶然作られ、勝手にひとり歩きするもので、引用の引用、孫引きの孫引きといった形で引用を重ね、原意とは無関係な言葉になる場合もあります。
だとしますと、「私にはなんの役にも立ちません」は、シュタイン夫人への手紙の文章ではないかもしれませんし、また、ゲーテの文章ではないという場合もあります。
結論的に、当館として公言できるのは、ゲーテが34歳のときの(これまで公開されている)シャルロッテ・フォン・シュタイン夫人への手紙のなかには、「わたしはもう何の役にも立ちません」という言葉に該当する表現は存在しないということです。