Q: ゲーテは温泉好きだったとのことですが、本当ですか?

A: ゲーテは、頻繁に温泉を訪れたといわれています。しかし、それは、単に、ゲーテが(日本語で言う)「温泉好き」であったという意味とは異なるようです。そもそも、温泉と温泉の使い方が、日本のものとは大分ちがいます。以下に、ゲーテと温泉の関係について、まとめてみました。

1.18世紀ヨーロッパの温泉の状況

まず第1に、ゲーテの時代、18世紀後半から19世紀の前半までのヨーロッパで「温泉」がどのような状態であったかを知る必要があります。

ヨーロッパで温泉、厳密には「鉱泉」が一般化するのは、18世紀になってからです。

ちなみに、今日温泉の総称として用いられている「スパ」は、ベルギーの温泉保養地スパーという地名から来ていると言われることが多いですが、ヨーロッパではすでに16世紀に「Salus per Aquam」(水による健康→水療法)の略語としてSPAが用いられていたようで、むしろ、ベルギーの鉱泉地の村名はこの言葉に由来するのではないかと推測できます。

いずれにしても鉱泉の水(湯および冷水)が健康によいという考えは、長い歴史を持っているわけですが、それが、「ヘルス信仰」(健康に対する水の大切さや病気への効能への過度の信仰)やビジネス(主として上流・中流階級を対象とした)としてエスカレートするのが18世紀です。その過程で、鉱泉場が、湯治場としてだけではなく、新しいファッショナブルなタイプの社交場として注目され、発展しました。

そこでは、独特のデザインの建築、街路、遊歩道、さらには、ギャンブル、ダンス、コンサート等の建物が作られました。

ゲーテは、1749年の生まれですから、まさにこうしたスパ施設とスパ文化が花を開く時代に育ち、やがてヴァイマルの宮廷の顧問官としても活躍するようになるわけですから、特に「温泉好き」でなくても、社交や保養のためにスパに行くという機会は少なくはなかったでしょう。

ゲーテとベートーヴェンが、1812年にボヘミア(現チェコ)のスパタウン、テプリッツで遇うエピソードも、二人が「温泉好き」のためというよりも、有名な社交場へやってきてたまたま出遭ったと見る方が適切でしょう。事実、温泉が好きか嫌いかに関係なく、社交をするかぎり温泉場に行かざるをえず、たいていの有名人や富裕階級はそういう場所によく行っていたと考えられます。

この文脈で考えれば、エッカーマンの『ゲーテとの対話』の1831年7月20日のゲーテの言葉として残されている温泉(カールスバート)への言及の意味がよくわかるでしょう。

「ちょっとした〔女性との〕情事は、温泉の滞在をしんぼうさせることのできる唯一のものだよ。それがなければ退屈して死んでしまうだろうね。さいわい私も、ほとんどいつのときもあすこで軽い親和力〔女性と親しい交流〕をみつけたが、それで数週間けっこう楽しくすごせたものだ。」(岩波文庫、同下巻、p.305)

1802年にゲーテが建設費の費用の一部を負担してまで実現した劇場の場所としてラウフシュテットを選んだのも、この地が当時は目立たないが、とにかく温泉場であり、温泉と劇場とをドッキングさせればひとも集まり、町自体も栄えるというゲーテの「ビジネス感覚」からでもあったと言えます。むろん、ゲーテの主要な関心は演劇の方で、数多くの舞台を企画し、演出しましたが、温泉事業に関しては、ゲーテがどの程度コミットしたのかは不明です。

2.健康上の事情

ゲーテは、他方で、健康上の理由からも温泉に行きました。「美男の偉丈夫」とみなされてきたゲーテも、実は、多くの病気に悩んでいたからです。「顔面丹毒」、リウマチ性疾患、消化器系の問題、腎臓病、気管支カタル等です。 17 歳のときから歯の病気に悩まされ、晩年は、磁器製の義歯を装着していました。

1785年から、ゲーテは西ボヘミアの温泉街カールスバート(1820年まで12回滞在)、フランツェンスバート、マリエンバートへ16回のスパ旅行を行い、テプリッツ、バート・ピルモント、ベルカ、ヴィースバーデン、テンシュテットでも治療を受けました。(1)と(3)の目的での滞在を含めた期間を合計すると3年間に及びます。ちなみに、あれほど熱を入れ、影響も受けたイタリアでの滞在期間の合計は1年半でした。

モンテーニュ(1533〜1592)の場合は16世紀になりますが、『旅日記』(刊行は1774年――18世紀)には、彼が各地の温泉を訪問する記述がたくさんあります。その場合、温泉治療は、湯につかるのではなく、そこで売られている鉱水つまりミネラルウォータを飲むことでした。つまり、温泉場とはヨーロッパでは、湯につかって体を温めるよりも、まずは鉱水を飲むのが温泉療法の基本だったのです。

ヨーロッパ(チェコも含む)の温泉場では、ゲーテを売りにしている場所が少なくありませんが、その宣伝文句を見ると、ゲーテが飲んだというそのミネラルウォーターの健康的な効能が書かれていたりします。

前述のラウフシュテットも土地のミネラルウォーターを飲ませており、それが、やがて19世紀になって、ボトル技術が発達して、現在見るような「ラウフシュテッター・ハイルブルネン」(Lauchstädter Heilbrunnen)のような瓶詰めの製品となるわけです。そのラベルには、「リューマチ、痛風、貧血、神経質 症に効く」と書かれています。また現地の土産店では、必ずそれを飲むためのコップも売られております。

3.学術的な理由と役人としての任務

ゲーテは、その『自然科学論』にも詳述されているように、鉱物学、岩石学、「古生物学」(先史時代に生きていた動物や植物を科学的に研究する学問) に深い関心をいだいていました。ヴァイマルの記念館には、ゲーテ自身が収集した17,000点を越える岩石標本が保存されていますが、地球や生物の起源や水というものの本質を探求するために鉱石に注目し、鉱泉訪問は、そういう目的も含まれていました。

また、そうした彼の学術的な薀蓄は、ヴァイマル公国の顧問官として、鉱山開発や調査を監督したり、事業を起こしたりするのにも役立ち、そうした監督官としての任務のために鉱泉地帯を訪れてもいたのでした。


東京ゲーテ記念館