ゲーテが「神聖化」されるまで

1871年(明治4)   J・S・ミル著、中村敬太郎訳『自由之理』巻之二に、初めてゲーテの名前がみえる。「第三ハ、日耳曼[ジェルマン]ニ於テ、グーテ、フィシテノ説出テ人心発リ立シ時ナリ・・・」とある。

1877年(明治10)  小林雄七郎訳『馬爾加摩[マルカム]氏、日耳曼[ゼルマン]国史』の下巻「附録第六十五篇日耳曼ノ文学ノ事」の中に、「ゴ イセ善ク人心ノ千態万状ヲ描シ出スト雖モ・・・」とゲーテについての解説がある。

1879年(明治12)  文部省発行の『百科全書』中「修辞及華文」の「楽詩」の項において、菊池大麓がカーライルの英訳から重訳。(共救社[フ リーメーソン]についての文章)明治10年代、新渡戸稲造や高山樗牛等が、カーライルを通してゲーテを受容する。

1884年(明治17)  7月、自由出版社より井上勤訳『独逸奇書・狐の裁判』出版。1886年に版権が春陽堂に移り、新たな初版を出す。これは版を重ねよく読まれた。

1888年(明治21)  『国民之友』36号に、石橋忍月の「ゲェテー論」が掲載。日本で最初のゲーテ論とみなされる。

1889年(明治22)  5月、『国民之友』49号において、石橋忍月が浅水生という名で訳詩「音楽師」を発表。「竪琴弾きの歌」の日本初訳である。8月、『国民之友』58号の夏期付録に、森鴎外が訳詩集「於母影」を発表、ドイツ詩翻訳に一時期を画す。この中に「ミニヨンの歌」が入っている。

1890年(明治23)  森鴎外が『しがらみ草紙』第4号に発表した評論「今の批評家の詩眼」において「伊太利の文華あるも、千古唯一のダンテあり。独逸の詩人おほきも、万古唯一ギョオテあり」とゲーテを絶賛。大詩人ゲーテのイメージが決定的になる。

1891年(明治24)  山形日報に、高山樗牛訳の「准亭郎の悲哀」が連載される。明治20年代から30年代にかけて、文壇にヴェルテル熱(ヴェルテリズム)が流れる。

1893年(明治26)  民友社発行の「十二文豪」叢書の第5巻、高木伊作著の『ゲーテ』によって、ゲーテの生涯と作品が初めて詳しく紹介され、文豪ゲーテのイメージが定着する。この中で「科学者としてのゲーテ』が論じられていることが注目される。

1901年(明治34)  11月、草野柴二訳『ヘルマン・ウント・ドロテヤ』出版。

1904年(明治37)  7月、久保天随訳『ヱルテル』出版。8月、高橋五郎訳『ファウスト』第一部出版。

1905年(明治38)  6月、橋本忠夫訳『ゲエテの詩』出版。

1912年(大正元)   7月、町井正路訳『ファウスト』(東京堂)出版。

1913年(大正2)   3月、森林太郎(鴎外)訳『ファウスト』第二部出版。

1914年(大正3)   2月、増富平蔵訳『イフヰゲニエ』出版。5月、高木敏雄訳『伊太利紀行』出版。同じく5月、生田長江訳『我が生活より』出版。

1915年(大正4)   小池堅治(秋草)訳『エグモント』出版。

1916年(大正5)   森鴎外訳『ギョッツ』出版。

1918年(大正7)   2月、久保正夫訳『親和力』出版。

1919年(大正8)   関口存男訳「兄妹」、雑誌『白樺』7月号に掲載。
              10月、関口存男訳『タッソー』出版。

1920年(大正9)   2月、林久男訳『ヰルヘルム・マイスター』(修業時代)出版。3月、洛陽堂発行の中山昌樹著『詩聖ゲエテ』によって、中国的な詩聖とも日本の伝統的な文豪とも異なる、西洋的な詩聖ゲーテのイメージが定着するようになる。

1928年(昭和3)   5月、林久男著『ゲーテの面影』(岩波書店)出版。

1932年(昭和7)   詩聖ゲーテ没後百年祭。7月、茅野蕭々著『ギョエテ研究』(第一書房)出版。

1934年(昭和9)   1月、木村謹治著『若きゲーテ研究』(伊藤書林)出版。学問的ベストセラーとなり、知識階級に普及。ゲーテの神聖化が決定的となる。



参考文献  木村直司『続ゲーテ研究』(南窓社)
星野慎一『ゲーテ』(清水書院)

東京ゲーテ記念館