ゲ―テにとって、〈旅〉は一生のテーマでした。外部の〈旅〉と思索の内部の〈旅〉とがたがいに交錯しあうことによって、彼のポリフォニック(多声的)な宇宙が形成されたのです。
フランクルフルト生まれの彼が、1775年にヴァイマル公国に招かれたのも大きな〈旅〉でした。1786年には、国政を放棄してイタリアへの2年近くに及ぶ〈旅〉を敢行します。
イタリアとドイツ各地への数多くの〈旅〉のほかに、ゲーテは、終生の居住地となったヴァイマルの市内を〈旅〉します。ヴァイマルは、500メートル以内ですべての用がたりる楽しい街ですが、そこには多様な路地があり、市の開かれる広場、教会、ホテル、レストラン、カフェ、書店、雑貨屋そして〝狭小邸宅〟など、大都市をミクロに縮小したかのような構造をなしています。これは、ゲーテ自身のプランによるところが大であり、ゲーテは、創造的な〈旅〉ができる街をみずからプラニングしたのでした。まさに「世界市民」の街ヴァイマルです。
ゲーテは、「ガルテンハウス」と呼ばれる別荘をアウグスト公からあたえられていましたが、「別荘」といっても、自宅や官邸からの距離は歩いて10数分しかかかりません。が、そのあいだには、森あり、川あり、公園ありで、自宅と別荘とのあいだで豊な〈旅〉をすることができたのです。
「フラウエンプラン」というゲーテの自宅の内部は、意外に狭い作りになっています。これは、ビーダーマイヤー様式を取り入れているためと言われますが、その〝狭い〟空間が実に多様で、ゲーテは、この室内でも多彩な〈旅〉を享受していたのでしょう。