1989年、北区役所道路課から、「小径」プロジェクト(特徴ある通りの環境を整備し、名称を付けする)の一環として、当館のまえの通りを「ゲーテの小径」と名づけ、向かい側の空き地(当時東京都が所有)にポケットパークを造りたいので協力してほしいという相談があった。
早速、当館は、ゲーテが半生を過ごしたヴァイマル(ワイマール)の通りの写真などを提供し、助言をした。「ゲーテパーク」のレリーフや年表の資料も当館が提供した。
ゲーテの詩を掲げたいという依頼で、「旅人の夜の歌」と『Zahme Xenien』(ツァーメ・クセニーエン)第V巻 所収の無題の詩の2点を選び、翻訳者としてドイツ文学者の星野慎一教授を紹介した。
後者の詩はあまり知られていないが、ここには「世界市民」という言葉があり、北区が「ローカル」であり、同時に「世界」に向かって「越え」ようとする、まさに「トランスローカル」な場所になるという自治体の理念につながるのではないかと思い、選択し、北区が採用した。
【解説/星野慎一】
この詩はなかなかむずかしい詩です。ドイツ人の学者とよく話合って、こんな訳に落ちつきました。ゲーテはだいたい心の広い人で、ドイツ人の排他的、深刻ぶる、いわゆる思想性のポーズが大きらいでした。彼は、いつも世界人でした。「世界文学」という言葉を最初に用いたのも、彼でした。
自分は小さなワイマールの町に住む人間であるが、つねに世界人です、といっているわけです。ここが詩の要です。恐らく粉川哲夫さんがこの詩を選ばれたのは、「われは北区民、されど世界市民なり」という広い視野を持つべしというお気お持ちから、この詩を選ばれたのでしょう。
ゲーテは、すぐれた自然学者であり、芸術家であり、また市民でした。ところが、ドイツ人は、やれ、何々学派出身の人などといって、小さな垣をつくって攻撃しあっていたのです。ゲーテは、それが、大嫌い。この詩は、そういうドイツ人にたいする皮肉でもあり、揶揄でもあり、教訓でもあったのでしょう。私はみなさんの兄弟だし、学者でもあり、芸術家でもあるから、みんな兄弟のような友達なんだ。だが、私は Bildung(普通は教養と訳しますが、本来は人間形成のもととなる英知と美徳の綜合されたものです)をもって、みなさんの仲間入りをする資格があると思ってじこ推薦して来たのです。私はこれが最高と思っているが、もっとよりよいことを知っているというのなら、その人は、私と無関係に、どこかほかのところで、その智慧を探し求めるがよい、という自負の気持を述べているものと思われます。
【解説/星野慎一】
1780年9月6日の夜、山小屋の板壁に鉛筆で書きしるした即興の詩です。この最後の du (きみ)という言葉は、独白のとき用いる二人称です。それで、本来なら「汝(なれ)」とルビをふった二人称が一番よいのですが、「汝(なれ)」は困ると言われましたので、「われ」という一人称に改めてみました。