ゲーテ人物ファイル


《政治・経済》

カール・アウグスト (1757~1826)
KARL AUGUST
ザクセン・ヴァイマル大公。1774年パリに向かう途中、初めてゲーテに出会った。翌年、母アンナ・アマーリアより、公国の統治の大権を譲られる。彼は献身的な軍人、情熱的で大胆な狩猟家・騎手であり、ボヘミアン的な生活を好み、エチケットを無視したが、英明で、大伯父にあたるフリードリヒ大王から「これほど将来を嘱望される年少の君主は見たことがない」と言われた。ゲーテを高く評価し、公国に招き、政務に参与させ、大臣に任用した。学芸の振興に力をそそぎ、シラー、ヘルダー、ヴィーラントを招き、ショーペンハウアー、フィヒテ、ヘーゲル、シェリング、フンボルト兄弟、シュレーゲル兄弟、ティーク、ブレンターノ等がこの公国に住み、また滞在し、ヴァイマルをドイツ文化の中心地とした。公は進歩的、開明的な君主であり、福祉国家の実現に努め、1816年に憲法を発布した。ゲーテとの長きにわたる交わりも、ハイゲンドルフ夫人の事件など、途中でいくつかのつまずきもあったが、互いによく理解しあった堅固な関係で、特に晩年の10年は曇りのないものだった。ゲーテは公のことを「生まれながらの偉人。ほとんど不可解ともいうべき実行力と魅力を持った、デモーニッシュな人」と賛えている。

アンナ・アマーリア (1739~1807)
ANNA AMALIE
カール・アウグスト公の母。ブラウンシュヴァイクの公女。フリードリッヒ大王は伯父にあたる。1756年ヴァイマル公エルンスト・アウグスト・コンスタンティンと結婚。1757年世子カール・アウグストを生む。しかしその翌年夫は亡くなり、カール・アウグストが成人するまで公母として後見をつとめ公国の統治に努力し、支えた。ヴァイマルに来た若いゲーテを深く理解し、信頼した。公母はまたゲーテの歌唱劇を作曲したり、舞台図を描いたりする芸術的天分を持ち、ゲーテは彼女のことを「完全な人間的センスをもった完全な公爵夫人」と呼んでいる。

クレメンス・クードレー (1775~1845)
CLEMENS COUDREY
 ヴァイマル公国の建築局長。ゲーテ家の常連客であり、ミュラーやマイヤーと共に食卓にはいつもその姿が見られた。ゲーテは「現代で最も巧みな建築家だ。私は彼に、彼は私に頼り、お互いのためになった」と深く信頼し、ヴァイマル公国の建築や行事については常にクードレーの協力があった。またゲーテはシラーと自分のための墓碑の設計もクードレーに依頼している。

カール・ルートヴィヒ・フォン・クネーベル (1744~1834)
KARL LUDWIG VON KNEBEL
 ヴァイマル公国の公子コンスタンティン(カール・アウグストの弟)の教育係、将校。1774年にカール・アウグスト公とゲーテを引き合わせ、ゲーテがヴァイマルに入る契機をつくった。ゲーテとは生涯にわたって親しく、ゲーテと親称の“du(君)”で呼び合った数少ない一人だった。彼が訳したルクレティウスの「物の本質について」はゲーテにも大きな影響を与えた。

ヨハン・クリスティアン・ケストナー (1741~1800)
JOHANN CHRISTIAN KESTNER
 ヴェツラーで会い、以来ゲーテの親しい友人。ブレーメン公国の公使秘書官。有能な法律家でもあった。ヴェツラーの帝国高等法院で学んでいたゲーテはシャルロッテ・ブフと出会い熱烈に愛するが、彼女には婚約者ケストナーがいた。彼は理性的ではあるが、デリケートな感覚を持ち、芸術を愛する立派な人物だった。「ヴェルテル」のアルベルトは彼の一部分である。1773年4月ロッテと結婚。その後もゲーテとの交友は続いた。

ヨハン・フリードリヒ・フォン・コッタ (1764~1832) 
JOHANN FRIEDRICH VON COTTA
 ゲーテに最もゆかり深い出版社コッタ書店の店主。1787年テュービンゲンのコッタ書店を継ぎ、1810年シュトゥットガルトに移った。プロイセンの枢密宮中顧問官であり、バイエルンの侍従。政治にもたずさわり、また芸術家のパトロンだった。ゲーテはシラーの紹介でコッタと知り合い、1797年にはテュービンゲンのコッタの家に九日間滞在した。この時ゲーテはコッタの進歩的な気性と事業ぶりが気に入って、彼を自分の全著作の刊行者にすることに決意した。彼はコッタと契約したが、ゲーテの受ける報酬はたいへん良いものだった。コッタは「ファウスト」をはじめ、多くのゲーテの著作を発行し、数種のコッタ版「ゲーテ全集」がある。

カール・ルートヴィヒ・ザント (1795~1820)
KARL LUDWIG SAND
 イェーナ大学生。1817年11月14日、ゲーテを訪問。狂信的な政治活動家で1819年コッツェブーを、ロシアと通じ、その反動政治に加担した売国奴として暗殺し、1820年5月処刑された。“ウィーン体制”の仕掛人メッテルニヒは、この事件をたくみに利用して、警察と検閲を強化し、自由主義と大学の自由を弾圧した。

フレデリック・ジャン・ソレー (1795~1865)
FREDERIC JEAN SORET
スイスの出身。ジュネーヴで科学、パリで鉱物学や物理学を学んだ。のち1822年から36年までカール・アウグスト公の世子カール・アレクサンダーの教育係をつとめる。彼は結晶学、植物学に関する造詣が深く、ゲーテときわめて親しかった。ゲーテの論文「植物のメタモルフォーゼ」を仏訳した。重要な資料であるゲーテとの対話を残しているが、これはエッカーマンがソレーの許しを得た上で、自分の「ゲーテとの対話」の中に納めている。ゲーテはソレーについて、「彼の特徴は平静な理性、自由で明晰な世界観、多方面の教養・博識、それらのものの背後に、美しい情緒と純粋な心が見える」と語っている。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・トレーブラ (1740~1819)
FRIEDRICH WILHELM VON TREBURA
 鉱山学者、技師、イルメナウ鉱山の鉱山長。ゲーテは財源のためにイルメナウ鉱山を復興させようと努力したが、結局成功しなかった。しかしこの活動がきっかけでゲーテは地質学、鉱物学に興味を持ち、研究を始め、生涯深い関心を持つにいたった。

ナポレオン・ボナパルト (1769~1821)
NAPOLEON BONAPARTO
 フランス皇帝。「若きウェルテルの悩み」を愛読し、エジプト遠征にも携行したほどだった。1808年エルフルトとヴァイマルにおいて三度ゲーテと会談した。初めてゲーテを見たときに、有名な言葉「ここに人物がいる」を言ったという。さらにそのさい「ヴェルテル」について詳しい感想を述べ、詩人を驚かせた。のちにゲーテはナポレオンの批評眼を、「縫い目なしに作ったという袖を一目見て、上手にかくしてあった縫い目をたちまち見破る、よく目の肥えた仕立て屋のようだ」と言っている。1812年モスクワより敗退中もわざわざゲーテに挨拶を送った。 

クリスティアン・ゴットロープ・フォン・フォークト (1743~1819)
CHRISTIAN GOTTLOB VON VOIGT
弁護士、司法官を経て、ヴァイマルの参事官、枢密顧問官となる。1783年ゲーテにより、イウメナウ鉱山の委員会に起用される。以後終生ゲーテと親交を結ぶ。フォークトはのち大臣。ゲーテと並んで「学問・芸術のための直接の施設機関」の監督局のメンバーとなる。彼はいつもゲーテの忠実な協力者だったが、後年、詩人が政務から退くにつれて、その後継者となり、行政上の心棒となった。ゲーテだけではなく大公の信頼も厚く、人事などについてもフォークトの意見が求められた。

ヤーコプ・フリードリヒ・フォン・フリッチュ (1731~1814)
JAKOB FRIEDRICH VON FRITSCH
 ヴァイマル公国枢密評議員の議長で優れた政治家。ゲーテの枢密院(内閣)入りに反対し、カール・アウグスト公と対立した。しかし公母アンナ・アマーリアの仲裁により解決し、ゲーテは枢密外務顧問官に任命され、政治家としての第一歩を踏み出した。ゲーテは「彼は私とは性格が合わなかったにもかかわらず、常に私に対して公正であった。私の純粋な意見、努力、業績を認めてくれた」と感謝している。

エルンスト・ヴォルフガング・ベーリッシュ (1738~1809)
ERNST WOLFGANG BEHRISCH
 ゲーテ青年時代の最も親しい友人。ライプツィヒのリンデナウ伯爵、その後デッサウのヴァルダーゼー伯爵に仕えた。宮廷顧問官。辛辣な性質でゲーテから「やせっぽちの悪魔」と呼ばれた。その奇人ぶりは「詩と真実」の中に詳しく描かれている。ゲーテは自分の家にいるよりベーリッシュのもとにいることが多かったほどで、最も素直に自己を示すことができる、またとない打ち明け話の相手だった。ベーリッシュあての彼の手紙は、ライプツィヒ時代のゲーテの最重要な文献である。詩「わが友ベーリッシュへ」がある。

フリードリヒ・フォン・ミュラー (1779~1849)
FRIEDRICH VON MUELLER
 エアランゲンとゲッティンゲンで法学を修める。ヴァイマル公国の参事官、宰相、枢密顧問官、州議会議員などをつとめる。ゲーテの信頼きわめて厚く彼はミュラーを自分の遺言執行者に指定している。1808年よりゲーテとの対話録を書き残し、これはミュラーの死後発表されたが、重要なゲーテ文献である。

カール・フリードリヒ・フォン・ラインハルト (1761~1834)
KARL FRIEDRICH VON REINHARD
 フランスの外交官、外務大臣、駐カッセル公使、枢密院顧問官、外務省局長、ドレスデン公使などを歴任。1807年カールスバートでゲーテと会い、以後ゲーテを理解、尊敬し、たびたびゲーテ家の客となり、終生豊かな文通を続けた。ゲーテは「私はすぐには彼を手ばなさない。私は彼にしがみついている」と言うほどラインハルトを信頼していた。

ルイーゼ (1757~1830)
LUISE
 カール・アウグスト公の妃。ヘッセン・ダルムシュタットの公女。1775年カール・アウグスト公と結婚。公妃はゲーテを理解し、ゲーテも「ファウスト」や「タッソー」の一部分が出来上がると彼女の前で朗読した。公妃が一時重病になった時、彼は「もし私たちが彼女を失うことがあったとしたら誰が生きる喜びを持てるだろうか」と嘆いた。「色彩論」は公妃に捧げられている。公妃はゲーテから天使と呼ばれたような気品あるやさしい人柄だったが、公母アンナ・アマーリアのかげにあって地味な存在だった。しかし1800年ナポレオン軍がヴァイマルに侵入したさい、ナポレオンに対して毅然とした態度でのぞみ、ヴァイマル公国を最悪の事態から救った。そしてナポレオンを「彼女はわれわれの二百の大砲をもってしても恐れさすことのできなかったひとだ」と感嘆させた逸話がある。

ヨハン・ヤーコプ・フォン・ヴィルレマー (1760~1838)
JOHANN JAKOB VON WILLEMER
フランクフルトの富裕な銀行家、プロイセン領事、枢密顧問官。教養のある芸術を理解する人だった。長年、ゲーテやその母と親しく、ゲーテを崇拝していた。1800年、彼はバレエ団にいた16才のマリアンネ・ユングを家に引き取り、自分の娘たちと一緒に教育を受けさせたのち、娘たちの同意を得た上でマリアンネと結婚した。フランクフルトの邸やゲルバーミューレの別荘にゲーテを迎え、歓待し、ゲーテとマリアンネの交友も寛容な理解ある態度で見守った。

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《自然科学》

カール・グスタフ・カールス (1789~1809)
CARL GUSTAV CARUS
 ドレスデン宮廷の侍医。比較解剖学者、生物学者であり、昆虫を含む無脊椎動物、特にその神経系について研究した。また哲学者、画家でもあった。ゲーテに似た全人的性格の人でゲーテとも親しく、ゲーテは彼のことを「優しい魂には多くのものが恵まれている」と評していた。カールスは1821年ゲーテ家を訪ねた時に受けた深い印象を晩年まで忘れなかった。

ジョルジュ・フレデリック・キュヴィエ (1769~1832)
GEORGES FREDERIC CUVIER
 フランスの博物学者。パリ王立博物館、コレージュ・ド・フランスの教授として比較解剖学と動物分類学を講じた。動物界を四群に分け、全動物界を一型とするジョフロワ・サンティレールと対立、1830年パリ学士院において数回激しい論争をした。ソレーが記しているエピソードは、このときのものである。七月革命が勃発したというニュースがヴァイマルに届き、興奮したソレーがゲーテのところに行くと、ゲーテも興奮していて、「君はこの大事についてどう思うか」と問う。ソレーは、てっきりフランス革命のことだと思って受け答えをすると、ゲーテが考えていた大事とは、キュヴィエとサンティレールの論争のことであった。

ジョゼフ・グリーン・コグスウェル (1786~1871)
JOSEPH GREEN COGSWELL
 アメリカの自然科学者、伝記作家。たびたびゲーテを訪問し、親しく迎えられた。ゲーテは、コグスウェルのアメリカ文学に関するエッセイを読み、そのスタイルの新しさを高く評価した。ゲーテは、また、アメリカの政治家であり歴史家であるバンクロフトが訪ねてくるたびに、親しみをもってコグスウェルとの交友について語り、彼のことを「非常に優れた人物」だと言っている。

エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレール (1772~1844)
ETIENNE GEOFFORY SAINT-HILAIRE
フランスの博物学者、パリ王立博物館の脊椎動物学教授。ナポレオンのエジプト遠征に参加した。動物界の体制についてキュヴィエと有名な論争をひき起こした。全体性を目指す彼の姿勢をゲーテは高く評価している。この論争のさい、サンティレールは、自分と見解を同じくするゲーテの名前を出した。ゲーテは、そのことを知って非常に喜んだという。

トマス・ヨハン・ゼーベック (1770~1831)
THOMAS JOHANN SEEBEC
熱電気の発見で知られる物理学者。1812年以来、ゲーテの光学研究を手伝う。ゲーテと連れ立って他家を訪問することもよくあった。彼がその法則性を明確にした内視的色彩にゲーテが関心を持ち、のちに論文「内視的色彩」(1820年)を書いた。

サムエル・トーマス・フォン・ゼーメリング (1755~1830)
SAMUEL THOMAS VON SMMERING
カッセル大学の外科学、解剖学教授。その後マインツ大学の医学教授。のち、フランクフルトの解剖学教授、枢密院顧問官。ゲーテと親交がある。ゲーテはゼーメリングから自然科学研究の面で影響を受け、彼の論文「人間の脳の写生図」を高く評価している。

アイザック・ニュートン (1643~1727)
ISAAC NEWTON
 イギリスの物理学者、天文学者、数学者。農家に生まれ、ケンブリッジ大学に学ぶ。のち、同大学教授となる。数学、物理学、化学、天文学それぞれの分野で多大な功績をあげ、神学も研究した。のち、王立造幣局検査官に任じられ、ついで長官となり、終生その地位にとどまった。また王立協会会長も務める。生涯結婚せず、死後ウェストミンスター教会に葬られた。
 彼の光学上の実験的研究も早くから始められ、まもなく分光現象についての主要な成果を得、反射望遠鏡を制作。光学研究の成果を「光学」(1704)その他で次々に発表していった。
 ニュートンより訳一世紀後の人ゲーテはニュートンの光学理論に激しく反発し、「色彩論」(1810)の第二部論争篇で「ニュートン光学現象を暴く」と題して攻撃している。ゲーテの色彩論は、多くの物理学者たちの拒絶反応にあったが、ショーペンハウアーのような味方もいた。現代においてはむしろルドルフ・シュタイナーをはじめとして、ゲーテに関心を持ち、共鳴する人々がふえている。

リューク・ハワード (1772~1864)
LUKE HAWARD
 イギリスの気象学者。雲の分類に関するパンフレットを出版し、今日知られる「巻雲」「積雲」「乱雲」などの名称を最初に名付けた。ゲーテは、自らも気象学の研究に熱心だったので、彼の研究を高く評価し、その功績をたたえて、詩「ハワードの功績追憶に」でうたっている。またハワードはゲーテのために自伝を書き、それをゲーテが翻訳し、雑誌「形態学のために」に掲載した。

ヨハン・ゲオルク・フォルスター (1754~1794)
JOHANN GEORG FORSTER
自然科学者。父に伴われ、クックの世界一周に参加、旅行記を書く。カッセル大学、ヴィルナ大学教授。マインツ選挙侯図書館司書となる。またアレクサンダー・フォン・フンボルトと共に各地を旅行して旅行記を著し、これはドイツ紀行文学の傑作とされている。1779年ゲーテはカッセル滞在中にフォルスターと知り合った。このときの模様をフォルスターはフリッツ・ヤコービにあてて詳しく知らせているが、そのなかでゲーテの印象を「謹厳で寡黙だ」と評している。彼はフランス革命の理念を熱烈に支持し、マインツにおいて革命運動を指導したが失敗した。

アレクサンダーフォン・フンボルト (1796~1859)
ALEXANDER VON HUMBORDT
自然科学者、地理学者。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの弟。イェーナに滞在し、ゲーテやシラーと交る。その後、世界中を旅行し、ヴィーン大学で地理学を講義。実験を重視し、科学的研究を開拓し、地理学、植物学、動物学、天文学、鉱物学の分野で成果をあげ、また気象学、風景学、海洋学をも創設した。ゲーテは、前々からフンボルトの業績を賛嘆の目で見守り、文通もしていた。初めて会ったときゲーテは、「何という人間であろう! 学識と生きた知恵とで彼に比肩する者は一人もいない。彼はパイプのたくさんついた井戸に似ている。どこにでも容器を置きさえすれば、いつでもさわやかな水が尽きることなく流れてくる」と言って驚嘆した。

ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハ (1752~1840)
JOHANN FRIEDRICH BLUMENBACH
医学者、比較解剖学者、人類学者、ゲッティンゲン大学教授。頭骨の計測的研究で知られる。動物学を比較解剖学から独立させ、生理学を医学の基礎と見なした。比較生理学を研究、生命の原理として「形成力」の概念を導入し、これはゲーテ、ヘルダー、カントに高く評価されたばかりでなく、当時の流行語ともなった。また人類の一元性を強調、系統的頭蓋学の分野を開拓し、人類を五つの種に分け、人類学の父ともいわれた。

カール・フォン・リンネ (1707~1778)
CARL VON LINNE
スェーデンの植物学者、ウプサラ大学教授(医学・解剖学・植物学)、学士院総裁。「自然の体系」で植物分類学の基礎を築き、その改訂版では生物を属名と種名で表す二名法を確立した。ゲーテは植物学研究においてリンネに大きな影響を受けているが、のちにはその方法に満足できなくなり、彼独自のメタモルフォーゼ理論を生みだした。

ユストゥス・クリスティアン・フォン・ローダ (1770~1831)
JUSTUS CHRISTIAN VON LODER
イェーナ大学の解剖学・外科学教授。のち枢密宮中顧問官、プロイセン国王侍医。モスクワで侍医、枢密院顧問官。解剖学上のゲーテの師で、ゲーテを動物学研究に導いた。またローダの研究会においてゲーテは人間の顎間骨を発見した。

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《芸術》

アウグスト・ヴィルヘルム・イフラント (1759~1814)
AUGUST WILHELM IFFLAND
  一代の名優。マンハイム国民劇場の俳優。のちベルリン国民劇場の監督。ゲーテは1779年、マンハイムにおいて「クラヴィーゴ」の上演を観、カルロス役で出演していたイフラントと知り合った。以後親交が続き、彼はたびたびヴァイマルに来演した。劇作家としても65篇の作品を残している。

クララ・ウィーク (1819~1896)
CLARA WIECK
ドイツのピアニスト。のち作曲家ロベルト・シューマンの妻。夫の作品を世に広めるのに貢献した。1831年12才の時、父と共にヴァイマルを訪れ、ゲーテのために演奏し、「ピアノの上手な可愛い女の子」と彼に喜ばれた。

アンゲリーカ・カウフマン (1741~1807)
ANGELIKA KAUFFMANN
 スイス生まれのドイツの女流画家。ドイツ古典派の先駆者の一人。イタリアで学んだ後、ロンドンで肖像画家として名声を得た。その後にローマに定住。画家アントニオ・ツッキと結婚。ゲーテのローマ滞在のおり、ティッシュバインやマイヤーと共にゲーテと親しく交際し、ゲーテの美術観賞のまたとない案内者となった。ゲーテは、別れのさい、感謝のしるしに、自分が栽培した松の苗木を彼女の家に植えた。なお彼女は、ゲーテの肖像と彼がイタリアで愛したマッダレーナ・リッジの肖像も描いている。

アウグスト・フォン・コッツェブー (1761~1819)
AUGUST VON KOTZEBUE
劇作家。ヴァイマルの弁護士を経て、ロシアに赴き官職についたのち、ウィーン宮廷劇場の座付作者となる。その後、再度ロシアに行き、ペテルスブルクの宮廷顧問官およびドイツ劇場の監督となる。ロシアの外交官として各地を旅行。自分の主宰する雑誌で、青年の自由主義的風潮を嘲笑したため、ロシアのスパイとみなされて、イエーナ大学生ザントにより暗殺された。200篇以上の戯曲を書き、喜劇には見るべきものがある。ゲーテとは意見が合わず、1802年コッツェブーが策謀したシラー生誕祭をゲーテが阻止したこともあり、また彼の社交の会「クール・ダムール」へのコッツェブーの入会も拒否した。ゲーテもその喜劇作品のいくつかは認めていたが、「彼は道化役者である」「観客の涙をしぼりだす玉葱の使い方をよく心得ている」などと評している。

マリア・シマノフスカ (1795頃~1831)
MARIA SZYMANOWSKA
 ポーランド生まれのロシア皇后のピアニスト。シマノフスカ夫人のヴァイマル滞在中、ゲーテはくり返しその演奏を聴き、ウルリーケとの別れによる傷心を慰めた。ゲーテはそのことを感謝の念を込めて「情熱の三部曲」の中の「和解」でうたっている。

ヨハン・ゴットフリート・シャドウ (1764~1850)
JOHANN GOTTFRIED SCHADOW
彫刻家、銅版画家。イタリア遊学後、プロイセンの宮廷彫刻家、ベルリンの美術学校校長となる。当時のギリシア美術模倣に対してリアリズムへの道をひらいた。1816年、ヴァイマルに滞在し、ヴィーラントの胸像を制作するなど、多くの仕事をした。また、ゲーテとも親しく交わり、その胸像をつくった。ゲーテから色彩現象の知覚のための実験を見せてもらったこともある。

フランツ・シューベルト (1797~1828)
FRANZ SCHUBERT
 オーストリアの作曲家。「糸を紡ぐグレートヘン」「野ばら」「ミューズの子」「魔王」他、ゲーテの詩にもとづいて数々の歌曲を作った。ゲーテを尊敬し、自分の作品を献呈したが、ゲーテはほとんどシューベルトを顧みず返事も出さなかった。ゲーテは、最初「魔王」を嫌悪したが、のちにドゥヴェリン女史の歌で聴いたときには、非常に感動し、「この曲は昔一度聴いたことがあるが、そのときは気に入らなかった。しかし、こんな風に歌われると、全体が手に取るように見え、一つの像が形造られる」と称賛した。

コロナ・シュレーター (1751~1802)
CORONA SCHROETER
 ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの独唱歌手、女優。ライプツィヒの学生時代、ゲーテは彼女に憧れた。1776年、ゲーテの推薦によりヴァイマルに招かれ宮廷歌手となる。1779年「タウリスのイフィゲーニエ」の初演では、コロナがイフィゲーニエを、ゲーテがオレストを、カール・アウグスト公の弟コンスタンティンがピラデスを演じた。まもなく彼女はヴァイマルを去った。コロナは多くの才能に恵まれゲーテの詩41篇を作曲している。

カール・フリードリヒ・ツェルター (1758~1832)
KARL FRIEDRICH ZELTER
 作曲家、音楽教師。また煉瓦積職の親方でもあった。ベルリンに男声歌唱協会、宗教音楽院を創設し、音楽教育に寄与した。ゲーテの親しい友人で彼に音楽上の大きな影響を与えた。「トゥーレの王」「旅人の夜の歌」他、ゲーテの詩を作曲。二人の間の往復書簡集がある。

ヨハン・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ティッシュバイン (1751~1829)
JOHANN HEINRICH WILHELM TISCHBEIN
 ドイツの肖像画家。ゲーテの仲介でイタリアに行き、ナポリの美術学校校長となり、帰国してオルデンブルク侯の宮廷画家となる。ゲーテがイタリア旅行でローマに行ったとき、ティッシュバインの家に宿泊した。そのさい描いた肖像画が有名な「カンパニアのゲーテ」である。

ユージェーヌ・ドラクロワ (1798~1863)
EUGNE DELACROIX
 フランスの画家、ロマン派の指導者。ネルヴァルの仏訳で「ファウスト」を読み、感銘し、その石版画の連作を描く。1826年ゲーテはエッカーマンと共にこれを見て、「私自身もこれほど完全に思い描いてはいなかった。ドラクロワ氏の絵は私のイメージを越えている」と述べて彼の才能を認めた。

ニコロ・パガニーニ (1782~1840)
NICCOLO PAGANINI
 イタリアのヴァイオリニスト。9才でステージに立って以来、世界各地を演奏旅行して、世界的天才ヴァイオリニストとうたわれた。1829年ヴァイマルに来てゲーテを訪れ、翌日演奏会をひらいた。彼の演奏を聴いたゲーテは、「デモーニシュなものがパガニーニには最も高度に現われ、それによって彼はあのような大きな効果を生み出している」と評した。

ヨハン・ネポムク・フンメル (1778~1837)
JOHANN NEPOMUK HUMMEL
オーストリアのピアニスト、作曲家。モーツァルトに師事した。サリエリやハイドンにも学び、ベートーヴェンとも交友があった。1819年よりヴァイマルで楽長をつとめた。ゲーテ家でもたびたび演奏し、親交があった。彼の息子もまたゲーテの孫たちの遊び友達だった。

カール・フォン・ブリュール (1772~1837)
KARL VON BRUHL
 林務官試補、侍従などを経て、1815年名優イフラントのあとをうけてベルリン王立劇場の総監督となる。1799年、ヴァイマルに来て宮廷劇場の仕事に関与した。ゲーテは、夫人とともにたびたび訪れたブリュールの、監督としての高い教養と見識、俳優としての鋭い才能を評価していた。

ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1770~1829)
LUDWIG VAN BEETHOVEN
 ドイツの作曲家。ベッティーナ・フォン・アルニムの紹介により、1812年テプリッツにおいて、長年尊敬していたゲーテと数回会う。ある時、二人が連れ立って歩いていると、オーストリア皇后の一行に出会った。ベートーヴェンは昂然と頭をあげて一行の真ん中を通ったが、ゲーテは道の傍らに立ち止って頭を下げていた。ベートーヴェンはそういうゲーテの態度を激しく非難し、ゲーテはベートーヴェンの粗暴さに背を向けた。二人は互いの天才を認め合ったが、友好関係をもつにはいたらなかった。「エグモント序曲」、リート「五月の歌」他、ゲーテの作品による多くの作曲がある。

エクトル・ベルリオーズ (1803~1869)
HECTOR BERLIOZ
フランスの作曲家。フランスロマン派音楽の先駆者。ロマン派の作家に大きな影響を与えた。パリ音楽院に入学。苦学しながら勉強し、やがて「幻想交響曲」で一躍有名になる。また、音楽批評家としてもすぐれた仕事を残した。若いころからゲーテに魅せられ、ジェラール・ド・ネルヴァルの翻訳により「ファウスト」を作曲。「ファウストの八場」の総譜をゲーテに贈る。ゲーテはそれをツェルターに見せたが、彼の意見は否定的でゲーテはベルリオーズに返信しなかった。

ズルピーツ・ボアスレー (1783~1854)
SULPIZ BOISSERE
美術学者、収集家。弟と共にケルン、ボンでドイツ中世美術を研究。またドイツ、オランダの古画を収集した。1811年、初めてゲーテを訪問。持参した中世美術のコピーの見本、自ら描いたケルン大聖堂、シュトラースブルクの大教会堂の設計図をゲーテに見せて深い印象を与え、中世美術に対するゲーテの関心を呼び起こした。彼の日記はゲーテ研究の重要な資料である。

ヨハン・ハインリヒ・マイヤー (1759~1832)
JOHANN HEINRICH MEYER
チューリヒ生まれの画家、美術史家。1786年ゲーテのイタリア旅行のさいに、ローマで初めて会った。1791年ヴァイマル絵画学校の教授となる。のち校長、宮廷顧問官。ゲーテの信頼を受け、良き友人として終生親交を結び、シュタイン夫人から、マイヤーは、「ゲーテの真似をしている」と言われたこともある。ゲーテは彼の美術研究家としての見識を高く評価し「マイヤーの中には幾千年の全美術に対する洞察がある」と称賛していた。

ヨハン・マルティン・ミーディング (?~1782)
JOHANN MARTIN MIEDING
 ヴァイマル宮廷素人劇場の道具主任。熟練した腕前と優れた独創的な考えによって、ゲーテに深く信頼された片腕だった。公妃ルイーゼの誕生日の三日前、祝祭劇の準備中に亡くなった。ゲーテの嘆きは深く、追悼詩「ミーディングの死を悼む」を書き、これはヴァイマルの人々に多大の感銘を与えた。

フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ (1809~1842)
FELIX MENDELSSOHN BARTHOLDY
 ドイツの作曲家。1821年12才の時、師ツェルターに連れられ初めてゲーテを訪問。ゲーテは彼のピアノ演奏に魅了された。以後たびたび訪問してゲーテにたいへん愛された。バッハ、ハイドン、ベートーヴェンなどの作品をくり返しゲーテに弾いて聴かせた。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト (1756~1791)
WOLFGANG AMADEUS MOZART
 オーストリアの作曲家。ゲーテは14才の時、7才のモーツァルトの演奏を聴いた。彼はモーツァルトの天才を敬愛し、晩年(1829年)にもエッカーマンに「モーツァルトが私の“ファウスト”を作曲すればよかったろう」と言っている。モーツァルトがゲーテの詩に作曲したものは「すみれ」ただ一曲である。

カロリーネ・ヤーゲマン (1777~1848)
CALOLINE JAGEMANN
 女優、歌手。1791年ヴァイマル劇場の女優となる。のちにカール・アウグスト公の愛人としてフォン・ハイゲンドルフ夫人の称号を得、公との間に二人の子供があった。この関係を利用して劇場のことにも干渉し、監督であったゲーテは怒り、1808年辞任しようとするが、公に慰留される。しかし1817年彼女の画策により「オーブリの犬」事件で、ゲーテはヴァイマル劇場監督を解任させられた。

ピウス・アレクサンダー・ヴォルフ (1782~1828)
PIUS ALEXANDER WOLFF
 優れた俳優。1803年俳優を志し、ゲーテの演劇学校に入るためゲーテを訪れた。入門を許され、以後親しく教えを受け、1804年ヴァイマル宮廷俳優となる。のちベルリンで舞台に立ち、名悲劇俳優として人々に感銘を与えた。劇作家でもある。ゲーテはヴォルフその他の有能な俳優を育てると同時に、彼らと共に演劇の研究をし、それらの覚書を後にエッカーマンが「俳優諸則」としてまとめた。

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《哲学・思想》

カール・ヴィルヘルム・イェルザーレム (1747~1772)
KARL WILHELM JORUSALEM
ライプツィヒ時代からのゲーテの友人。ヴォルフェンビュッテルの司教区次長の息子。きまじめで憂鬱症ともいえる性格だった。哲学を研究し、孤独の生活を送り、死と死後の問題に没頭した。ブラウンシュヴァイク公使館の仕事をしていたヴェツラーにおいて、上役とのあつれき、貴族のパーティに入場を拒否されたことなどで厭世的になっていたが、書記官ヘルトの夫人に望みなき愛を抱き、出入りを禁じられた。まもなく彼はケストナーからピストルを借り、自殺した。この報にゲーテは驚き、シュロッサーと共にヴェツラーに赴き、事件の詳細をきいた。彼は自分のロッテ体験とイェルザーレムの事件を結び合わせて「若きヴェルテルの悩み」を書いた。

ヨハン・ヨアヒム・ウィンケルマン (1717~1768) 
JOHANN JOACHIM WINCKELMANN
 美学者、美術史家、古代美術史研究の創始者。古典主義の先駆者。苦学して美術や歴史を研究、「ギリシア美術模倣論」などで名声を得た。ローマに赴き調査・研究により苦心の力作「古代美術史」を著した。
 のちオーストリアを訪問。マリア・テレジアより金銀の記念碑を贈られ、帰途トリエステにおいてその記念碑を強奪しようとした凶漢に刺殺された。この報はかねてよりウィンケルマンを深く尊敬していた19歳のゲーテに大きなショックを与えた。ゲーテ編の評論集「ウィンケルマンとその世紀」がある。

トーマス・カーライル (1795~1881)
THOMAS CARLYLE
イギリスの批評家、歴史家。エディンバラ大学に入り、牧師を志したが、まもなくこれを捨て、数学、法律を学んだのち、文学やドイツ観念哲学を研究した。著作に「衣裳哲学」「フランス革命史」「英雄および英雄崇拝」などがある。彼はゲーテを深く尊敬し、ゲーテを真に理解した唯一のイギリス人といわれる。1824年6月カーライルの最初の手紙がゲーテに届き、同10月カーライルあてのゲーテの第一信が出されている。以後、毎年、ヴァイマルのゲーテとクレイガンパタックのカーライル夫妻との間で手紙や贈物が往来した。彼はイギリスにゲーテ、シラーの作品を知らせることに挺身し、ゲーテも愛読した「シラー伝」を書き、「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」「ファウスト」第二部の「ヘレナ」の場を翻訳した。暖かな敬愛に満ちたゲーテへの書簡の中でカーライルは「あなたの作品は私にとって鏡でした」「一度もお会いしたことのない、おそらくお会いすることもないであろう外国語を語る方、あなたが私の最も高貴な恩人、私の見い出した唯一の真の恩人であった・・・・」と述べている。

エマヌエル・カント (1724~1804)
IMMANUEL KANT 
 哲学者。ケーニヒスベルク(現ソ連領カリーニングラード)の家具職人の子に生まれる。篤信な母の感化を深く受け、ケーニヒスベルク大学に進み、哲学、数学、物理学、神学を学んだ。卒業後、家庭教師をし、論文「火論」で学位を得、大学講師になり、15年後正教授になる。この頃より彼の成熟期が始まり、数々の著作が発表されていった。主なものに、「プロレゴメナ」「道徳形而上学原論」「実践理性批判」「判断力批判」「純粋理性批判」他がある。ゲーテはカントに傾倒し、深い尊敬を捧げた。「カントを一ページ読むとあたかも明るい部屋に入ったような気がする」、「カントは哲学の立派な基礎を置いた最初の人だった。この上に種々な方向が築かれた」、「彼は人間の精神がどの程度まで到達可能なのか、境界線を引いた」、「彼は純粋理性批判を書き、はかりしれない功績をあげた」等々多くのカント賛辞を残している。ある時、エッカーマンが近代の哲学者ではだれが一番優れていると思うかときくと、「疑いもなくカントだ」と答えている。

フリードリヒ・W・ヨゼフ・フォン・シェリング (1775~1854)
FRIEDRICH WILHELM JOSEPH VON SCHELING
 哲学者。テュービンゲン大学に入り、ヘーゲル、ヘルダーリンと親交を結んだ。神学、古典語学、哲学を修め、ライプツィヒで数学、自然科学を研究する。またフィヒテとカントに傾倒した。ゲーテの好意でイェーナ大学教授となったが、カロリーネ・シュレーゲルとの恋愛事件によってイェーナを去る。ヴェルツブルグ、ミュンヘン各大学教授を歴任、その後ヘーゲルの後任としてベルリン大学哲学教授になる。ゲーテは彼と活発に交際し、1800年の大晦日も、シラー、シェリングと共に意義深い重要な会談で過ごした。ゲーテに大きな影響を及ぼした哲学者はスピノザとシェリングだといわれる。

アルトゥール・ショーペンハウアー (1788~1860)
ARTHUR SCHOPENHAUER
哲学者。母は作家ヨハンナ・ショーペンハウアー。彼を商人にしたかった父の自殺後、ゲッティンゲン大学で哲学、自然科学を修める。ベルリン大学でフィヒテを聴講して失望。イェーナ大学で学位を得てヴァイマルに住む。ゲーテと親しく交わり、その刺激を受けて「色彩論」を研究、ニュートンに対抗するゲーテの色彩論を支持した。またゲーテも彼の論文「根拠十分なる文章の四重の根」を激賞した。「意志と表象としての世界」を書き、ベルリン大学講師となり、のちフランクフルトに定住した。

ウィリアム・ジョーンズ (1746~1794)
WILLIAM JONES
 イギリスの東洋学者、インド哲学の専門家。カルカッタ高等法院判事としてインドに滞在。ベンガル・アジア協会を創立し会長となる。イギリス最初のサンスクリット研究、およびインド学の創始者である。ヴェーダ文学、古典サンスクリット文学、比較神話学、インド古代法典などの翻訳をし、特にカーリダーサーの戯曲「シャクンタラー」の英訳は、ヨーロッパへの初めてのこの作品の紹介であり、多大の影響を与えた。ゲーテもこの訳を読み、大いに傾倒し、「ファウスト」の「天上の序曲」で「シャクンタラー」の手法を用いている。

スタール夫人 (1766~1817)
MADAME DE STAL
フランスの女流文学者。「ネケル財政論」で有名な銀行家で総理大臣でもあったネケルの娘。母のスザンヌも文学者。母のサロンの名士達ディドロ、アランベール、ビュフォン等に接しながら成長した。フランス駐在スウェーデン大使スタール・ホルスタインと結婚したが、離婚。その著「小説論」にはゲーテも注目し、ドイツ語に訳した。彼女の自由主義思想はナポレオンの迫害を受け、ヨーロッパ各地を転々と暮らすことになった。ヴァイマル滞在中ゲーテともしばしば会った。その後、大著「ドイツ論」を書き、ゲーテもこれを熱心に読んだ。夫人はシャトーブリアンと共にフランス・ロマン主義の先駆者である。

バルフ・ド・スピノザ (1632~1677)
BARUCH DE SPINOSA
 オランダの哲学者。ポルトガル系ユダヤ商人の子としてアムステルダムに生まれた。初めユダヤ教団所属の学校に学び、同派の神学・神秘思想などを研究したが、西欧的思想に興味を寄せ、数学、自然学、デカルト思想に傾倒し、自由思想家達と交わったためユダヤ教会から破門された。レインスブルク、フォールブルク、後にハーグに住む。ハイデルブルク大学からの招きを辞退したこともある。「神学政治論」によって無神論者とされ、十数年を費やして完成した「倫理学」(エチカ)も生前は刊行不可能だった。神即自然の汎神論を打ちたて、神への知的愛を道徳の理想とした。彼の思想は無神論唯物論として約百年間葬られていたが、ドイツ哲学などに影響を与え、ゲーテも若い時代からスピノザに傾倒し、ヤコービとの友情もスピノザを通して育った。彼はヤコービあての手紙の中で、スピノザを無神論者ではなく最大の有神論者と呼んでいる。年を経てもゲーテは、自己形成に大きな影響を及ぼした人としてスピノザをあげている。

ジョージ・バンクロフト (1800~1891)
GEORG BANCROFT
 アメリカの歴史家、政治家。ハーバード大学等で教える。ヴァン・ビューレン大統領によってボストン税関長に任命され、ポーク大統領の下で海軍長官となり、アナポリスに海軍兵学校を設立した。のち駐英公使として英仏の資料を収集、また駐プロイセン公使となった。彼は民主党に属したが奴隷制に反対して共和党のリンカーンを助けた。バンクロフトは歴史家としてはアメリカ最初のドイツ学派を形成した。著書に大作「アメリカ合衆国の歴史」がある。ゲーテを尊敬し、数回訪問してゲーテから喜んで迎えられた。やはりゲーテを訪れたアメリカ人の自然科学者コグスウェルとも親しく、いつもゲーテとの間で彼のことが話題になっている。

ハインリヒ・E・G・パウルス (1761~1851)
HEINRICH EBERHARD GOTTLOB PAULUS
 プロテスタント神学者。イェーナ大学の東方語学教授、神学教授。のちヴェルツブルク大学、ハイデルベルク大学で教会史を講じた。徹底的な合理主義者で、聖書の解釈においても、奇跡を自然現象として説明しようとした。ゲーテ家の食卓の常連であり、ゲーテもたびたびパウルス家を訪問した。パウルスはゲーテをこの上なく尊敬し、彼にとってゲーテにまさる思想家はいなかった。彼がゲーテと共に過ごした時間、ゲーテが語った言葉は神聖なものであり、その追想は愛情と畏敬に満ちている。著書に「新訳聖書に関する言語学的批判的注釈」「イエスの生涯」などがある。

ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ (1762~1814)
JOHANN GOTTLIEB FICHTE
 哲学者。ザクセンのランメナウに生まれ、イェーナ、ライプツィヒ両大学で神学を修める。カント哲学に感激、「あらゆる啓示の批判の研究」の原稿を持ってケーニヒスベルクのカントを訪問。認められて出版の機会を得る。それは最初、匿名で発表されたためカントの著作と思われたが、著者がわかって一躍有名になった。前々から婚約していたクロプシュトクの姪、ヨハンナ・ラーンと結婚、イェーナ大学教授になる。ここで彼の体系の主なものが執筆されたが、道徳秩序が神であるとする論文が無神論論争を引き起こして大学を罷免された。この時ゲーテは仲裁の労をとろうとしたが無駄に終わった。その後ベルリンに移る。ナポレオン軍占領下に行った連続講演「ドイツ国民に告ぐ」は、政治的にも影響を及ぼした。ベルリン大学の創立に携わり教授・初代の互選総長となった。ドイツ独立戦争のさい、篤志看護婦となった妻ヨハンナが病兵の看護から悪疫病に冒され、フィヒテもこれに感染して病没した。フィヒテが初めてゲーテに会ったとき、ゲーテは「われわれが互いに近くにいられるなら、これからいろいろなことを話しましょう」と喜んだ。ゲーテはフィヒテのことを「近代の最も優れたスコラ哲学者だ」と言っている

カール・ヴィルヘルム・フォン・フンボルト (1767~1835)
KARL WILHELM VON HUMBOLDT
 言語学者、政治家、文人。法律を修め、プロイセンの官職に就く。エルフルト、ヴァイマル、イェーナに住む。のちパリ、スペイン、ローマと転じ、帰国後、内務省文教局長として、ベルリン大学の創設に尽力。全権公使としてヴィーン会議に参加。ロンドン公使、国務相を歴任。ドイツ人文主義の代表者で、比較言語学的研究の上に立つ言語哲学は重要な学問的業績である。彼はゲーテと親交を結び、文通を続けた。1832年3月17日のゲーテの最後の手紙はフンボルト宛であり、「ファウスト」について述べられている。

ヨゼフ・フォン・ハンマー=プルクシュタール (1774~1856)
JOSEPH VON HAMMER=PURGSTALL
 オーストリアの東洋学者、外交官。近東各地に駐在し、のち宮廷通訳官、宮中顧問官を歴任する。トルコ史研究をはじめ、イスラム世界の文献、歴史風俗に関する博識をもって知られ、イギリスのジョーンズ、フランスのサシと並び称された。彼の「ハーフィズ詩集」の翻訳はヨーロッパ文学界に大きな影響を及ぼした。ゲーテは部分的に雑誌などに発表されていたこの翻訳を読んでいたが、1814年にウィーンで出版されたハンマー訳の「ハーフィズ詩集」を読み強烈な印象を受けた。その直後のフランクフルト方面の旅行にもゲーテはこの詩集を携えて行った。これを契機に彼のオリエント研究は深まり、組織的になりやがて「西東詩集」を生みだすことになる。

ゲオルグ・フリードリヒ・ウィルヘルム・ヘーゲル (1770~1831)
GEORG FRIEDRICH WILHELM HEGEL
哲学者。テュ-ビンゲン大学で哲学、神学を研究。ヘルダーリン、シェリングと交友。またカントに始まる哲学運動、フランス革命、古典ギリシア研究から大きな影響を受ける。シェリングの推挙でイェーナ大学講師となり、後年の体系の基となる講義案を残した。シェリングがイェーナ大学を去ったのち、独自の思想が成熟し、「精神現象学」を著した。助教授になっていたイェーナ大学を生計のために辞任、バンベルクの新聞編集者、ニュルンベルクのギムナジウムの校長となる。その後、ハイデルベルク大学、のちベルリン大学に招かれ、「法の哲学」を書く。すでに彼の哲学は時代の大きな勢力になっていたが、コレラのために急逝した。ゲーテはヘーゲルに好意を持ち親交があった。ヘーゲルもゲーテ家の食卓で活発な会話を交わした。ある時ゲーテは客がヘーゲルであると知らずに一緒に食事をした嫁のオティーリエに向かって、「はてさて私たちは今、最も著名な現代の哲学者、つまりゲオルク・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘーゲルと食事をしていたんだよ」と語った。

ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー (1744~1803)
JOHANN GOTTFRIED VON HERDER
批評家、思想家。初め医学を修め、ケーニヒスベルク大学で神学を学び、カントの講義、ハーマンとの交友などから人間についてのさまざまな知識を吸収した。敬神の念篤く、のち聖職者となる。1770年、シュトラースブルクで21才のゲーテと会い、ゲーテは以後ヘルダーに師事して決定的な影響を受けた。また、シュトゥルム・ウント・ドランクの運動にも大きい影響を与え間接的にはロマン派にも影響を及ぼした。1776年ゲーテの推薦により、ヴァイマルの宗務総監となった。しかし、ヘルダーの角のある人柄のため、ゲーテとも数回疎遠となり、ついに絶交状態となった。

ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ (1746~1827)
JOHANN HEINRICH PESTALOZZI
スイスの教育家。幼くして父を失い、母と忠実な召使いの女性に育てられた。カロリナ大学に学び、ボードマー教授の感化を受け、またルソーに影響されて、ブルックに農場を作った。翌年、生涯の協力者となった、アンナ・シュルトヘスと結婚。同地に貧民学校を経営、「隠者の夕暮」他を書き、ついでシュタンスに孤児院をを開設、「シュタンス便り」を執筆。ブルクドルフに私塾的学園を作り、彼の教育思想の全貌を示す「ゲルトルートはいかにその子を教えるか」を発表。学園をミュンヘンブーフゼー、さらにイーヴェルドンに移した。しかし弟子たちの不和その他の理由で学園も傾き、やがてついに閉鎖した。彼の思想はドイツを初め諸国の教育界に及んだ。ゲーテも強い関心を持ち、その理念を高く評価し、ペスタロッチの人柄も「立派で善良な愛すべき人」として好んだ。ペスタロッチの方にもゲーテを賛える詩がある。ペスタロッチはドイツを、ゲーテはスイスを旅行したことがあるが二人が直接会ったかどうかはわからない。

モーゼス・メンデルスゾーン (1729~1786)
MOSES MENDELSSOHN
 ドイツのユダヤ人哲学者。のちゲーテに愛された音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父にあたる。レッシングの友人でカントとも文通し、啓蒙思想の普及に努力した。また聖書とタルムードの研究家でもある。「哲学講話」「感覚についての書簡」他の著作がある。ゲーテは29才の時ベルリンに行き、彼を訪問した。

フリードリヒ(フリッツ)・ハインリヒ・ヤコービ (1743~1819)
FRIEDRICH(FRITZ) HEINRICHH JACOBI
 作家、思想家。特にスピノザ研究者として知られる。初め商人を志し、財務官、ついでミュンヘン科学アカデミー会長となる。ゲーテが叔母さんと呼んで親しんでいたヨハンナ・ファールマーの二人の甥ヤコービ兄弟の弟。ファールマーによってこの友情は始まったが、時には遠く隔たることもあり、特に「ヴェルテル」を模倣したヤコービの小説「ヴォルデマル」をゲーテが嘲笑したことから断絶したことがあった。しかし、まもなく和解、長く続いた。またヤコービの妻ベッティもゲーテが尊敬する女性だった。

ヨハン・カスパル・ラーヴァター (1741~1801)
JOHANN KASPAR LAVATER
 スイスの神学者、聖書学者、プロテスタントの牧師、文筆家、人相学者。シュトゥルム・ウント・ドランク時代を代表する一人。21才の時、チューリヒの代官の不正を摘発攻撃して名をあげた。ドイツを遍歴して人々を魅了し「南方の魔術師」といわれた。「人相学判断」(ゲーテはこの本のためにスケッチや影絵を送っている)を書き、大きな影響を与え、またその人相学は賛否両面をまき起こした。晩年になると神秘主義志向がますます強くなり、友人たちもだんだん離れていった。彼は若きゲーテとも親交を結んだが、その関係は長くは続かなかった。ゲーテは晩年彼について、「ラーヴァターはいい人間だったが、大きな妄想にとらわれていた。厳密な真理を問題にしなかったため、自他ともに欺いたのだ。それで彼とは絶交してしまった」と語っている。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・リーマー (1774~1845)
FRIEDRICH WILHELM RIEMER
 古典文献学者、言語学者、文学者。フンボルト家の家庭教師をしたのち、1803年末、アウグストの家庭教師、並びにゲーテの秘書として、ゲーテ家に同居し、カロリーネ・ウルリッヒと結婚するまでこの家に住んだ。高等学校教授、図書館司書になったが、ゲーテの秘書も続けた。彼は気まぐれで、短気、人づきのしない性格であり、アウグストとの折り合いも悪かったため、ゲーテとの仲もしばしばひびが入った。しかし最後の10年間はおだやかだった。エッカーマン、フォン・ミュラー、ソレーとともにリーマーもゲーテとの対話を残している。ゲーテはエッカーマンとリーマーに、遺稿に関する全権を委ねた。

ジャン・ジャック・ルソー (1712~1778)
JEAN-JACQUES ROUSSEU 
 ジュネーヴ生まれのフランスの思想家、文学者。ディジョンのアカデミーの懸賞論文の一位となった「学問芸術論」にはすでに自然思想の芽ばえが見られる。ディドロ、アランベールらと交友があったが、思想的に相容れず、やがて百科全書派とは手を切るにいたる。写譜をしながら生計をたて「人間不平等起源論」「社会契約論」「新エロイーズ」など次々に大作を書いた。しかし「エミール」がカトリック教会の怒りにふれ焚書となり、彼はスイスにのがれるが「山からの手紙」によってスイスも追われロンドンに渡る。以後、パリに落ち着くまで転々としながら「告白」を完成した。死後11年目にフランス革命が起こり、「社会契約論」に説かれた人民主権論はロベスピエールはじめ革命指導者たちの思想的なささえとなった。また彼の作品はフランス・ロマン主義文学の先駆となり、その影響はゲーテ、バイロンにまで広く及んだ。「若きヴェルテルの悩み」には「新エロイーズ」の影響が見られる。

ヴォルテール (1694~1778)
VOLTAIRE
フランスの文学者、思想家、啓蒙思想家の代表。本名フランソワ・マリ・アルーエ。パリに裕福な公証人の子として生まれる。イエズス会の学校で法律学を修めたが、文学に傾倒し、悲劇「エディプ」によって文名を高め、社交界の寵児となったが、貴族を風刺したため、前後二回バスチーユに投獄される。釈放の後ロンドンに住み、イギリスの議会政治、民主主義的諸制度、風習、思想、文化を研究、共鳴する。ロック、ニュートン、シェイクスピア等を学び各界の名士と交わった。帰国後、再び社交生活。悲劇「ザイール」を上演して大成功。庇護者であり、愛人となったシャトレ伯爵夫人を識る。「哲学書簡またはイギリス書簡」によって反響を呼んだが、逮捕命令が下ったのでシャトレ伯爵夫人の別荘にのがれ、以後10年間、ここにあって文学、自然科学の研究に没頭。悲劇「マホメット」や「メリープ」を書く。その後フリードリヒ大王に招かれてポツダム宮殿に入り優遇されるが、やがて王と不和、フランスに帰る。フェルネに定住し、啓蒙思想の普及に尽くし、「フェルネの長老」と呼ばれ、ヨーロッパの思想界に君臨した。この間代表作「カンディド」「寛容論」「哲学辞典」などを発表。また土地の開発、種々の社会改良、司法上・宗教上の犠牲者の救済に力をつくした。悲劇「イレーヌ」上演にさいし、パリ入りしたが急逝する。ゲーテはヴォルテールの「マホメット」と「タンクレッド」を翻訳し、それぞれヴァイマルで上演された。ナポレオンはゲーテに会った時、その「マホメット」訳を称賛した。

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《文学》

ベッティーナ・フォン・アルニム (1785~1859)
BETTINA VON ARNIM
 女流作家。後期ロマン派きっての才女。ゲーテに愛されたマクシミリアーネ・ブレンターノの娘。クレメンスの妹。ゲーテを熱烈に愛して、ゲーテの母アーヤ夫人から子供時代のゲーテの話を聞き、これをゲーテに伝え、彼は「詩と真実」を書く時にこれを大いに参考にした。ゲーテとベートーヴェンが会うように計らったのも彼女である。たびたびゲーテを訪れ「ゲーテとある子供の文通」を書く。これには、異常なほどの情熱と感受性の持ち主だった彼女の空想癖が多分に入っているといわれる。アルニムとの結婚後ゲーテ家を訪れた彼女は、ゲーテの妻クリスティアーネと衝突、ゲーテから出入りを止められた。しかしベッティーナはゲーテに終生変わらぬ敬愛を捧げた。彼女は社会的関心も強く、文筆によって活発な政治活動をした。

アヒム・フォン・アルニム (1781~1831)
ACHIM VON ARNIM
 ドイツの後期ロマン派を代表する詩人、小説家、劇作家。自然科学、法律経済学を学んだ後、ヨーロッパ各地を旅行。1811年ベッティーナ・ブレンターノと結婚。ハイデルベルクでクレメンス・ブレンターノと協力して、ドイツ各地に伝わる歌謡を集めた「少年の魔法の角笛」を刊行。この作品は、民族の遺産を見直させ、ドイツ語に新しい生命を吹き込み、ゲーテも高く評価を与えていた。しかし、空想と現実が入り混じり、えてして無形式に陥りやすい彼の小説については、ゲーテは、「たがをしめ忘れた樽のようなものだ」と評している。

アダム・ゴットロープ・エーレンシュレーガー (1779~1850)
ADAM GOTTLOB OEHLENSCHLEAGER 
 デンマークの詩人。初め俳優を志したが失敗。コペンハーゲン大学で法律を学び、古代北欧文学を耽読。ステッフェンスよりドイツロマン主義の精神に感化され、「黄金の角杯」「アラディン」他、次々に発表して北欧詩壇の第一人者となった。のちに諸国を歴訪。ヴァイマルではゲーテと会い才能を認められた。のちコペンハーゲン大学の美学教授、総長となる。国民から深く敬愛され、デンマーク国民文学の基礎を築いた。ヴァイマル滞在中、ゲーテは彼と親しく交わり、とりわけデンマーク語についての対話に深い印象をおぼえたという。

ヨハン・ペーター・エッカーマン (1792~1854)
JOHANN PETER ECKERMANN
 ゲーテ晩年の秘書。貧しく育ち、苦学してゲッティンゲン大学で学ぶ。長年ゲーテに憧れ、論文「散文への寄与」が機縁で、1823年6月10日ゲーテを訪ね、彼の希望によってヴァイマルに定住することになり、ゲーテの秘書となる。彼の不朽の業績となった「ゲーテとの対話」はこの日に書き始められている。彼はゲーテに対する没我的献身と尊敬とをもって、晩年のゲーテに仕えた。ゲーテはこの秘書のことを「彼の繊細、活発、そして熱情的な情緒は私にとってたいへん貴重なものだ。書き上げたものを彼には安心して見せられるのも、彼が読者として穏やかに評価する美しい天分があり、要求するものについてははっきり述べるからだ」と言っている。エッカーマンの「ゲーテとの対話」はゲーテ研究に不可欠な資料であり、またその平明典雅な文章は文学的にも高く評価されており、ニーチェは「ドイツ最良の書」と称賛している。エッカーマンはゲーテの死後、ヴァイマル図書館の司書、図書館長、宮中顧問官となり、ゲーテ全集の編集と出版にあたった。

カーリダーサー(5C)
KALIDASA
 インドの詩人、劇作家。生地はウッジャイニーとされているが、その生涯及び作品の成立年代は明らかではない。グプタ朝のチャンドラグプタ二世の宮廷で活躍したらしい。インド古典文学を完成し、サンスクリット文学を不朽にし、インドのシェークスピアといわれている。作品は叙事詩、戯曲にわたり、みごとな筆致、典雅な韻律の上、修辞技巧を駆使している。その最高傑作「シャクンタラー」は18世紀末、ウィリアム・ジョーンズの英訳によってヨーロッパに紹介され、絶賛をあびた。ゲーテはこの訳を愛読し、「ファウスト」においてその手法を利用している。

ハインリヒ・フォン・クライスト (1777~1811)
HEINRICH VON KLEIST
 劇作家、小説家。哲学、物理、数学を学んだが、カント哲学の影響を受けやがて作家として立つ決心をする。ベルリン、パリ、スイスを経てヴァイマルを訪れ、ゲーテ、シラー、ヴィーラントと知り合った。「ゲーテの頭から冠を奪おう」として「ローベルト・ギスカール」を書いたが成功せず、原稿を焼いてしまう。ドイツ喜劇中の最高傑作といわれる彼の「こわれがめ」は、ゲーテの演出によって上演されたが大失敗に終り、クライストはこれをひどく怒った。戯曲「ペンテジレーア」「ハイルブロンのケートヒェン」「ヘルマンの戦争」、小説には「ミハエル・コールハース」「チリの地震」「O侯爵夫人」「聖ドミンゴ島の結婚」などがある。芸術的、政治的、物質的不満がつもり、人生に絶望して、不治の病に悩む人妻フォーゲルと共にピストル自殺をとげた。

フリードリヒ・マクシミリアン・フォン・クリンガー(1752~1831)
FRIEDRICH MAXIMILIAN VON KLINGER
 劇作家、小説家。ゲーテの青年時代の友人。ゲーテは彼を愛し、貧乏な彼を援助した。若いゲーテと共に新しい文学運動を展開し、その奔放で情熱的な戯曲「シュトゥルム・ウント・ドランク」がこの運動の名称となった。小説に「ファウストの生涯と行為と地獄落ち」などがある。後年、ロシアに行き、将軍となった。クリンガーが死んだ時、ゲーテは、「以前彼にはいろいろ手こずったが、またとない誠実な男だった・・・」と悲しんだ。

フリードリヒ・ゴットリープ・クロプシュトック (1724~1803)
FRIEDRICH GOTTLIEB KLOPSTOCK
 詩人。ドイツ近代詩の父といわれる。イェーナ、ライプツィヒ大学で神学を学んだが、詩人を志し宗教叙事詩「救世主」を発表して反響を巻き起こし、また1771年、「頌歌」によって作り物でない真のドイツ近代詩の黎明をもたらした。「救世主」がいかに当時の青年たちに感動を与えたかは「ヴェルテル」の中にも見られる。1750年、デンマーク王の招きでコペンハーゲンに行き、20年間滞在。その後ハンブルクに住んだ。彼は数回ゲーテのもとを訪れたりして交友があったが、ヴァイマルに入ったゲーテとカール・アウグスト公の奔放な行動について非難したクロプシュトックの手紙に対して、ゲーテは峻烈な返事を書いた。

ヴィルヘルム・グリム (1786~1859)
WILHELM GRIMM
 グリム兄弟の弟。文献学者、言語学者。兄と一心同体で仕事をする。ゲッティンゲン大学教授。追放(ゲッティンゲン七教授事件)、ベルリン・アカデミー正会員就任、ベルリン大学教授と変わる生涯において、彼は常に兄と一緒だった。この兄弟によってゲルマン文学の全容が確立された。協同の仕事には、「ドイツ語辞典」(その後もゲルマン語学者に代々受けつがれ、最近完成した)、「子供と家庭のための童話」(いわゆるグリム童話)などがあり、ヴィルヘルム個人の研究には「ドイツ英雄伝説」がある。しばしばゲーテを訪ね、親しく迎えられ、ゲーテ夫人のクリスティアーネの死の時も、嘆きの中にあるゲーテを訪れて慰めた。

フランツ・グリルパルツァー (1791~1872)
FRANZ GRILLPARZER
 オーストリアの劇作家。ウィーンに生まれ、貧苦と戦いながら大学で法律を学び、家庭教師、財務官吏等を経て、宮廷の文書課長となる。晩年は上院議員、ウィーン名誉市民。その間、「サッポー」「金羊毛皮」「ベートーヴェンの思い出」「海の波恋の波」「夢の人生」「あわれな音楽師」「自伝」他の作品を書いた。1826年ゲーテを訪れたが、優しいゲーテの態度に「これらの好意に対する感謝のあまり彼をひどくうんざりさせてしまいました」というほど感激してしまった。

ウィリアム・シェークスピア (1564~1616)
WILLIAM SHAKESPEARE
 ヘルダーとの出会いによって、自分の中の天才を解き放たれた21才のゲーテはさらに彼によってシェイクスピアを教えられた。シェイクスピアにはライプツィヒ時代から触れてはいたが、真に深い理解を持ったのはこの時だった。彼にとってシェイクスピアは「高きが上に高き星」となり、彼に対する尊敬の念は一生ゲーテから離れないものになる。若いゲーテがいかにシェイクスピアの作品に没頭していたかは日記にも記されている。彼は1771年10月14日のシェイクスピアの名前であるウィリアムの日にあたって、フランクフルトの自宅でシェイクスピア祭を開催し、席上自作の論文「シェイクスピアの日に」を朗読した。「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」はシェイクスピアから生まれたものであり、その影響は「エグモント」「ヴィルヘルム・マウターの演劇的使命」「ヴィルヘルム・マウターの修業時代」などに広く現われ、また「ファウスト」の中の「ワルプルギスの夜の夢」の場には明らかにシェイクスピアの「真夏の夜の夢」の影響が見られる。ゲーテはのちに論文「限りのないシェイクスピア」「劇詩人としてのシェイクスピア」も書いた。

アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル (1767~1845)
AUGUSUT WILHELM VON SCHLEGEL
 批評家、詩人、翻訳家、東洋語学者、フリードリヒ・シュレーゲルの兄。ゲッティンゲン大学で神学、古典語を学び、イェーナに行き、カロリーネと結婚。シラーの主宰する「ホーレン」誌などに寄稿。イェーナ大学の助教授となる。弟フリードリヒと共同で初期ロマン派の機関誌「アテネウム」を創刊し、ロマン主義の世界観及び芸術観の基礎を作った。各地の大学で講じ、スタール夫人に同行して、ヨーロッパ各地を巡り、のち、ボン大学教授となった。彼のシェイクスピア名訳は輝かしい不朽の業績である。またフリードリヒと共に古代インド文学の研究の基礎を築いた。シュレーゲル兄弟は自らゲーテの弟子と称するほどゲーテを敬愛し、たびたびゲーテを訪問した。ゲーテもできる限り兄弟のためにつくし、ウィルヘルムもゲーテの好意でイェーナ大学で講義をした。しかしゲーテとロマン派がだんだん疎遠になるにつれて、ヴィルヘルムもやがてゲーテと離れてしまった。

フリードリヒ・フォン・シュレーゲル (1772~1829)
FRIEDRICH VON SCHLEGEL
 哲学者、詩人、歴史家。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルの弟。ゲッティンゲン、ライプツィヒの大学で法律、哲学、古典語学を修める。兄と共に、イェーナでロマン主義文学理論のために活動する。兄より、才気があり、感覚が鋭く、簡潔・鋭利な表現を駆使して、初期ロマン派の先頭に立った。ベルリンに出てシュライエルマッヘルらと交り、その後、ロマン派の理論的指導者としてイェーナ、パリ、ケルンなどで文学、哲学を論じた。のちカトリックに改宗、ヴィーンに移ってオーストリアの官職につく。兄ともどもゲーテを尊敬し、「ヴィルヘルム・マイスター」には最高の賛辞を捧げた。しかし兄と同じく後年、ゲーテと絶縁した。その作品に小説「ルツィンデ」、戯曲「アラルコス」などがある。

ヨハンナ・ショーペンハウアー (1766~1838)
JOHANNA SCHOPENHAUER
 女流作家。哲学者アルトゥール・ショーペンハウアーの母。ダンツィヒの銀行家と結婚。夫と共にヨーロッパ各地を旅行し、夫の死後ヴァイマルに定住した。彼女のサロンにはヴァイマルの文人たちが集まり、ゲーテもほとんど欠かさずこのサロンに出席して楽しんだ。クリスティアーネと正式に結婚したゲーテが彼女を社交界に出そうとしてまず妻を伴って訪れたのも、ヨハンナのサロンだった。ヨハンナはクリスティアーネに社交の手解きをした。娘のアデーレも作家で、小説・童話を書き、日記を残している。ヨハンナは、息子アルトゥールとはうまくいかず、のちに絶縁してしまった。

J・C・フリードリヒ・フォン・シラー (1759~1805)
JOHANN CHRISTOPH FRIEDRICH VON SCHILLER
 詩人、ドイツの偉大な劇作家。処女作であり、「シュトウルム・ウント・ドランク」の代表作でもある「群盗」を書き、そのマンハイムでの上演がカール・オイゲン公の不興を買ったため、シュトゥットガルトを脱走。各地で貧しい流浪生活を送りながら作品を書き、やがてヴァイマルに赴き、1789年イェーナ大学の助教授となる。肺患と貧困に悩み続けたが、アウグステンブルク公子が年金を贈って救った。1788年初めてゲーテと会い、1794年決定的な友情が成立し、それは類いまれな豊かな実りをもたらすものであった。この交友の記念が千通以上にのぼる「ゲーテ・シラー往復書簡」である。1805年シラーが亡くなった時、誰もゲーテに知らせる勇気を持てないほどだった。彼は「私は友を失い、私の半分を失った」と嘆き悲しんだ。今ヴァイマルでゲーテとシラーは同じ霊廟で眠っている。「群盗」のほか、「たくらみと恋」「ヴァレンシュタイン」「メッシーナの花嫁」「オルレアンの少女」「ヴィルヘルム・テル」「ドン・カルロス」などがある。

ウォルター・スコット (1771~1832)
WALTER SCOTT
イギリスの詩人、小説家。エディンバラに生まれ、弁護士となり、セルカークシャの知事代理、最高裁判所の書記を歴任。関係していた出版社が破産したが、13万ポンドの負債を努力して文筆によって完済した。早くから興味を持って集めた「スコットランド国境の歌」を出版。作品として「マーミオン」「湖上の美人」「アイヴァンホー」「ランメルムーアの花嫁」「パースの美少女」などがある。またゲーテの「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」を英訳出版した。彼はゲーテの崇拝者で、文通を続け、自作を送った。ゲーテも彼の手紙をいつも喜び、その作品を愛読した。

ルートヴィヒ・ティーク (1773~1853)
LUDWIG TIECK
 ロマン派の作家。批評家。ゲーテと親交のあった彫刻家クリスティアン・フリードリヒ・ティークの兄。ハレ、ゲッティンゲン他の大学で学び、この間生涯の友人であるヴァッケンローダーとの交友が生まれる。「金髪のエックベルト」「美しいマゲローネの不思議な愛の物語」「長靴をはいた猫」などの作品があり、A.W.シュレーゲルのシェイクスピアの全戯曲の翻訳を援助し、中世文学研究、シェイクスピア研究も続けた。1797年彼はイェーナに移り、ゲーテとも親しく交わった。ゲーテはティークの才能を大いに認め「私以上に彼の功績を認めているものはないが」としながらも、シュレーゲル兄弟がゲーテへの対抗上、ティークを必要以上に持ち上げたことを残念がっている。

ドニ・ディドロ (1713~1784)
DENIS DIDEROT
 フランスの哲学者、文学者。ラングルム生まれ。パリ大学に学び文筆生活を始める。「盲人に関する手紙」が無神論的内容であったため、三ケ月投獄された。新しい百科全書の編纂に力を注ぎ、アランベール、ルソー、モンテスキュー他、当時の進歩的思想家を動員して第一巻を発行。たびたび迫害を受け、発行を阻止され、大部分の協力者たちは手を引いたが、出版業監督官のマルゼルブの庇護とジョフラン夫人の経済的援助で事業を継続、21年を費やして本文17巻、図版11巻を完成した。彼はその他、哲学、文学、演劇、芸術等に関する多くの著作を残している。ゲーテはディドロの作品を入手するたびに熱心に読み、「彼の作品は考えが明確で感じ方が深く、核心をついていて雄渾で語りも優雅だった」と言っている。そして彼はディドロの「ラモーの甥」を翻訳している。

クリストフ・フリードリヒ・ニコライ (1733~1811)
CHRISTOPH FRIEDRICH NICOLAI
 ドイツ啓蒙期の哲学者。モーゼス・メンデルスゾーンやレッシングと親交があった。啓蒙思想によって当時の民衆に影響を与えたが、新しい時代の創造性が理解できず、ゲーテ、シラー、カント、フィヒテらを感情的に攻撃した。自殺者を生んだ「若きヴェルテルの悩み」が青年に悪影響を及ぼすとして、「若きヴェルテルの喜び」というパロディを書いてゲーテの怒りを買った。ゲーテはこれに対して「ヴェルテルの墓の上のニコライ」という詩で嘲笑している。

ジェラール・ド・ネルヴァル (1808~1855)
GERARD DE NERVAL
 フランスの詩人、小説家、ジャーナリスト。パリに生まれ、ヴァロア地方の叔父のもとで成長した。このヴァロアの思い出と祖父から感化された神秘思想が彼の一生を支配する。ナポレオン軍の軍人だった父の帰国とともに、パリに戻り、中学に入り、生涯の友ゴーチェと出会う。やがて最初の狂気の発作を起こして入院。以来、たびたび狂気に苦しめられる。最後はパリの裏街の一隅で縊死した。その作品には「東方旅行記」、短編集「火の娘」、詩集「幻想詩編」、小説「オーレリア」などがある。また「ファウスト」の仏訳はゲーテに激賞され、ドラクロワもこの訳を読んで「ファウスト」の挿絵を描いた。彼の晩年の作品は、象徴派やシュールリアリズムの詩人たちにも深い影響を与えた。

ハーフィズ (1320~1389)
HAFIZ
 ペルシアの叙情詩人。イラン南部の都シーラーズに生まれた。幼くして父を失い、貧しく育ち、奉公したのち、パン屋を開業する。その中で学問に励み、ハーフィズ(コーランの暗記者の意味)となり、この名を筆名にする。彼はフィルダゥスィー、サアディー、ルーミーと並んでペルシア文学四大詩人の一人であり、その名声は インド、イラクに達し、諸方から招かれたが生涯故郷を離れなかった。彼の詩は、ヨーロッパ文学にも大きい影響を与えゲーテはハーフィズの詩集の独訳を読んで感動し、オリエント文学の研究をはじめた。「西東詩集」の発端もハーフィズとの出会いである。

ハインリヒ・ハイネ (1797~1856)
HEINRICH HEINE
 デュッセルドルフの貧しいユダヤ人家庭に育つ。諸方の大学を転々としながら法律を学ぶ。A.W.シュレーゲル、ヘーゲルの講義から大きな影響を受け彼の文学活動は始まった。「ハルツ紀行」「旅の絵」「歌の本」を出し、コッタ書店に招かれ「政治年鑑」を編集。パリの七月革命の勝利に「ぼくは革命の子だ」と市民的自由に憧れてパリで第二の人生を始める。ユーゴー、バルザックらと交り、のちパリに来たマルクスと親交を結び、社会主義思想を深める。病弱の晩年は、「しとねの墓穴」に横たわりながらも数々の詩を書いた。その作品に「アッタ・トロル」「ドイツ冬物語」舞踏詩「ファウスト博士」「ロマンツェーロ」などがある。彼はドイツロマン主義から出た近代ヨーロッパの詩人で、ゲーテとは違った意味で稀有な世界主義者であり、またドイツの「みじめさ」を克服するために真剣に闘った愛国詩人だった。ハイネはゲーテを訪問したとき、「いまどんな仕事をしていますか」ときかれ、「“ファウスト”を書いています」と答えてゲーテを驚かせた。

ジョージ・ゴードン・バイロン (1788~1824)
GEORGE GORDEN BYRON
 イギリスの詩人。「チャイルド・ハロルドの巡礼」で一躍有名になり、社交界の寵児となる。しかし、恋愛をめぐるスキャンダルでイギリスを去ることになり、スイス、イタリアに住む。この間「コリントの包囲」「マンフレッド」「カイン」「ドン・ジュアン」他、多くの作品を発表。1823年、ギリシア独立軍に参加してミソロンギに上陸したが熱病にかかり、この地で没した。彼の「マンフレッド」は「ファウスト」から暗示を受けて書かれたといわれる。ゲーテはバイロンを愛読し、詩篇「バイロン卿に」を贈っている。彼はバイロンの死を惜しみ、「ファウスト」第2部の登場人物オイフォリオンの中にその姿をとどめた。

クレメンス・ブレンターノ (1778~1842)
KLEMENS BRENTANO
 ドイツ後期ロマン派の詩人。ベッティーナ・フォン・アルニムの兄にあたる。ハレ、イェーナ両大学に学びゲーテ、ヴィーラント、ヘルダー、シュレーゲル兄弟らと交友した。女流詩人ゾフィー・メローと結婚。アルニムと協力してドイツ民謡史に輝かしい功績を残し、ゲーテも高く推賞した「少年の魔法の角笛」を集成、刊行した。ゲーテは、感性過多で、放縦に流れやすいロマン派の文学を「病院文学」として嫌い、クレメンスの創作姿勢については批判的であったが、個人的には彼に対して親切であった。

ヨハン・C・フリードリヒ・ヘルダーリン (1770~1843)
JOHANN CHRISTIAN FRIEDRICH HLDERLIN
 抒情詩人。テュービンゲンの神学校に学び、ヘーゲル、シェリングと交友し、シラーに傾倒した。古典ギリシアに深く憧憬し、イェーナ大学卒業後、銀行家ゴンタルト家の家庭教師となり、その家の夫人ズゼッテと会う。ギリシア的美しさと教養にあふれたこの夫人にディオティーマの名を贈り、熱愛した。この体験が彼を偉大な詩人へと育てていく。しかしこの愛の破局ののち、やがて精神錯乱に陥り、薄明のうちに長い晩年を送った。彼はヴァイマルを訪れた時、ゲーテを数回訪問。パーティの中、ゲーテがヘルダーリンに話しかけたが、ヘルダーリンは他のことに気をとられ、自分が話している相手が誰だったのか気がつかなかったというエピソードがある。

クリストファー・マーロウ (1564~1593)
CHRISTOPHER MARLOWE
エリザベス朝のイギリスの劇作家。カンタベリーの靴製造人の子。ケンブリッジ大学に学ぶ。学生時代から政府の機密情報機関に入り、時には外国でスパイ活動に従事した。文筆活動もこの頃から始め、「タンバレン大王」「マルタ島のユダヤ人」「エドワード二世」「パリの虐殺」「ヒアローとリーアンダー」などの作品がある。ファウスト伝説をイギリスで初めて劇化した彼の「フォースタス博士」は、のちにゲーテの「ファウスト」のもととなった。彼は前々から無神論者として悪評があり、当局の追及の手がのびていたが、1593年5月ロンドン郊外の旅館でフレイザーという暴漢に殺された。単なる喧嘩のうえの死とも政治的暗殺ともいわれるが、真相は謎である。

ヨハン・ハインリヒ・メルク (1741~1791)
JOHANN HEINRICH MERCK
 ヘルダーと共に青年時代のゲーテに多大な影響を与えた人。生まれながらの批評家と言われる。ゲーテは22才の時、シュロッサーの紹介で陸軍主計官メルクと会った。彼は明敏博識、多面的な教養を具え、芸術に関し的確で鋭い判断を示し、当時の文学運動に大きな刺激を及ぼした。ゲーテの天才を深く理解し「ゲッツ」の出版を勧めた。またメルクを主幹としてゲーテ、シュロッサーが同人となり「フランクフルト学芸雑誌」を発行した。彼はカール・アウグスト公や、公母アンナ・アマーリアとも親しく、ゲーテの母からも好意を持たれていた。メルクのことをゲーテは「詩と真実」の中で生き生きと描写している。彼はまたメフィストフェレスのモデルとも言われる。しかしやがて病気と不遇による不機嫌が昂じついに自殺にいたった。

カール・フィリップ・モーリッツ (1757~1793)
KARL PHILIPP MORITZ
小説家、美学者。苦学してヴィッテンベルクで神学を修め、ベルリン、ケルンの高等学校教師となる。1786年よりイタリアに赴き、ローマに来たゲーテと親交を結ぶ。帰国後ベルリン美術学校古代学教授。美学上の著作の他、自伝小説「アントン・ライザー」が有名。ゲーテのローマ滞在中、モーリッツが40日以上にわたるひどい病気にかかった時、ゲーテから親身の介抱を受けた。交友は以後も長く続いた。またゲーテはモーリッツの韻律論から「イフィゲーニエ」改作について多くを教えられた。

ハインリヒ・ユング=シュティリング (1740~1817)
HEINRICH JUNG-STILLING
医者、経済学者、文学者。エルベフェルトで眼科医を開業し、白内障の手術によって名声を得た。のち廃業して財政学、経済学を修め、ハイデルベルク大学、マールブルク大学の教授となった。著作も多く、自伝「ハインリヒ・シュティリングの青春」は有名。ゲーテと親交を結んだ。著書のなかでシュティリングは、彼が友人たちと食事をしていた時、「明るい大きな目をして、さっそうと」部屋に入ってきたゲーテとの初めての出会いの感動を生き生きと描いている。

ゾフィー・フォン・ラ・ロッシュ (1731~1807)
SOPHIE VON LA ROCHE
 女流作家。ゲーテが愛したマクシミリアーネの母。クレメンス、ベッティーナのブレンターノ兄妹の祖母。ヴィーラントの青年時代の恋人。マインツの宮中顧問官でのちにトリールの宰相となったリヒテンフェルスと結婚。才能ある作家で、ドイツに婦人小説のジャンルを創設した。ゲーテに敬愛されロッテへの失恋で傷ついたゲーテはたびたび夫人を訪れ、慰めを得た。

ミヒャエル・ラインホルト・レンツ (1751~1792)
MICHAEL REINHOLD LENZ
 詩人、劇作家。初め神学を修め、シュトラースブルクに赴きゲーテと出会い、共に学ぶ。当時の社会問題を扱った戯曲「家庭教師」「軍人たち」、演劇論「演劇覚え書き」などでシュトゥルム・ウント・ドランクを代表する作家の一人となった。ゲーテに傾倒し、彼に従ってヴァイマルに入る。レンツは病身の故よりも精神的に不幸な人間だった。二重人格でゲーテは「奇妙な、なんとも定義しようのない個性」と評している。ゲーテに魅惑され、彼のようになりたいというのが生涯の願望で、そのためゲーテのすべての友人に、またフリーデリーケ・ブリオンにも近づこうとした。その著作もすべてゲーテの模倣だった。のちに彼は失意の末、発狂して、最後はモスクワの路上で凍死した。

クリストフ・マルティン・ヴィーラント (1733~1813)
CHRISTOPH MARTIN WIELAND
 詩のクロプシュトック、戯曲のレッシングと並んで、小説の領域でドイツ啓蒙主義を代表する作家。スイスの文芸批評家ボードマーに7年間指導を受け、その後ビーベラハで官房長などをしながら英仏文学を研究。彼のシェークスピア翻訳は、ゲーテにも大きな影響を与えた。のちヴァイマル宮廷に招かれ、ゲーテ、シラー、ヘルダーたちと親しく交りながら亡くなるまで過ごした。作品に「アーガトン物語」「ムザ-リオン」ゲーテも絶賛した「オーベロン」などがあり、一青年の内面的発展の諸相を描いた「アーガトン物語」は「ヴィルヘルム・マイスター」の先験的作品といわれる。

ツァハーリアス・ヴェルナー (1768~1823)
ZACHARIAS WERNER
 詩人、劇作家。父が歴史学の教授をしていた郷里の大学でカントの講義を聴き、その後ベルリンに出て、フィヒテやシュレーゲルと交わった。彼は放埒な分裂的性格で、三度結婚に失敗した。のちローマでカトリックに改宗。ヴィーンで説教者として人気を集めた。1807年、歴史劇「マルティン・ルター或は力の神聖」という作品によってセンセーションを起こす。この年ゲーテを訪ねた。ヴェルナーの卑屈さや奇怪な言動にもかかわらず、ゲーテは彼の中に「脇道にそれたが真に天分のある資質」を認め、支援しようとした。その作品「ヴァンタ」や「二月二十四日」を上演し、詩の競作によって彼の才能を伸ばそうと図った。しかし、嘘つきでだらしのないヴェルナーを我慢強く受け入れたゲーテも、最後には、ヴェルナーを拒絶することになった。

 
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《女性》

リリー(アンナ・エリーザベト)・シェーネマン (1758~1817)
LILI(ANNA ELIZABETH) SCHNEMANN
 フランクフルトの富裕な銀行家シェーネマン家の娘。26才のゲーテはシェーネマン家の音楽会でピアノを弾いているリリーに会った。二人は愛し合いやがて婚約する。しかし二人の環境の違いが大きく、社会的違和感や結婚に対するとまどいがゲーテを悩まし、「一切を捨ててゲーテと共にアメリカに行く」というリリーの誠実さにもかかわらず婚約は解消された。しかしこれをきっかけにしてゲーテはヴァイマルに行くことになる。ゲーテはその晩年にもリリーを偲んで、「彼女は私が深く真に愛した最初の、また最後の女性だった。リリーを愛していた頃ほど本当の幸福に近づいたことはなかった。」とエッカーマンに語っている。

アンナ・カタリーナ・シェーンコップ (1746~1810)
ANNA KATHARINA SCHトNKOPF
 ゲーテがライプツィヒ大学の学生時代に愛した女性。ケートヒェンと呼ばれる。1766年、復活祭見本市にやって来たシュロッサーからゲーテは錫器製造者クリスティアン・ゴットリープ・シェーンコップを紹介された。彼の妻は、大学生や大学関係者に食事やワインを出す店を経営しており、ケートヒェンはその娘だった。美しく気立てのよいケートヒェンをゲーテは愛するようになったが、まだ若くわがままだった彼は嫉妬に悩み、2年後この恋は終わった。彼女はその後、弁護士カンネと結婚した。ケートヒェンのことは詩集「アネッテ」や戯曲「恋人の気まぐれ」等に描かれている。

シャルロッテ・フォン・シュタイン (1742~1824)
CHARLOTTE VON STEIN
1776年ヴァイマルに入り、宮廷の人となったゲーテは、主馬頭フォン・シュタイン男爵の夫人シャルロッテに会う。彼女はゲーテより7才年上で7人の子供の母だった。特に美しくはなかったが、情操に富み、人の心を深く理解するセンスを持った夫人にゲーテは強く心をひかれた。夫人によってそれまでのシュトゥルム・ウント・ドランク的な激情が鎮静化されてゆき、ゲーテは自分を理解してくれる夫人のことを「あなたは前世では私の姉か妻であったのだ・・・」と歌っている。この愛は長く続き数多くの詩、「タッソー」「イフィゲーニエ」など豊かな実りをもたらした。しかしゲーテが無断でイタリア旅行に出たことについて夫人が怒り、帰国後クリスティアーネとの関係に及んでとうとう決裂した。なお数年後に友情は回復している。

アウグステ・ツゥ・シュトルベルク (1753~1835)
AUGUSUTE ZU STOLBERG
 ゲーテの未見の手紙の恋人。グストヒェンとも呼ばれる。のちのベルンシュトルフ伯爵夫人。二人の兄もゲーテと親交がある。「ヴェルテル」を愛読したアウグステはその感激を述べた手紙を、兄を通して1775年ゲーテにとどけた。リリーとの関係で苦しんでいたゲーテは彼女に返事を書き、以後7年間、アウグステを告白の聴聞者として、18通の重要な手紙を書き、晩年にもまた手紙のやりとりをした。彼女への手紙は後年「グストヒェンへの手紙」としてまとめられ出版された。

ヨハンナ・ファールマー (1744~1821)
JOHANNA FAHLMER
 ゲオルク、及びフリッツ・ヤーコビ兄弟の叔母。ゲーテの母方の親戚にあたる。のち、シュロッサーに嫁したゲーテの妹コルネーリアが亡くなったあと、シュロッサーと結婚した。恋人ロッテと別れ、妹を結婚によって失ったゲーテはファールマーに信頼を抱き、打ち明け相手とし、数年間、母と妹を別にすれば一番近しい人だった。彼女は二人の甥やゲーテから「叔母さん」という通称で愛されていた。またゲーテの母アーヤ夫人と協力して、ゲーテと父親との間の調停者ともなった。ゲーテとヤコービ兄弟を近づけたのも彼女である。ゲーテは「詩と真実」の中でファールマーについて最大の尊敬をもって語っている。

シャルロッテ・ブフ (1753~1828)
CHARLOTTE BUFF
 普通ロッテと呼ばれる「若きウェルテルの悩み」のモデルとなった女性。法律を修めたゲーテは、1772年父の希望で、ヴェツラーの帝国高等法院の実習生となった。まもなく舞踏会でドイツ騎士団管理主務官の娘、ロッテと知り合った。彼女はすでにケストナーと婚約していたが、母を亡くした弟妹たちを母代りとなって世話していた、家庭的で美しく生き生きした彼女を熱烈に愛するようになった。この間のことは「若きウェルテルの悩み」に描かれている。しかしケストナーの寛容な態度によって、危機をまぬがれゲーテは二人のもとを去った。ケストナー夫人となったロッテは後年、1816年ヴァイマルにゲーテを訪ねている。

フリーデリケ・ブリオン (1752~1813)
FRIEDERIKE BRION
病気回復後、シュトラースブルク大学に入ったゲーテが愛した女性。シュトラースブルクに近いゼーゼンハイムの牧師の娘。21才の秋、初めて牧師館を訪れたゲーテは「片田舎の空に世にも愛らしい星が現われた」ような18才のフリーデリーケに出会った。それから10ヶ月ほどの間に8回ゼーゼンハイムを訪れたが、彼女への愛が高まると同時に束縛を感じはじめ、学位を得て故郷に帰るとき、言葉には出さないままひそかに別れを告げた。その8年後、彼はスイスへの旅の途中、ゼーゼンハイムに立ち寄り、フリーデリケとなごやかに再開している。しかし、ゲーテは清純な少女を傷つけたことに強い自責を感じ、生涯罪の意識を持っていた。フリーデリーケとの出会いによって生まれた「五月の歌」「野ばら」「逢う瀬と別れ」他数々の詩はドイツ叙情詩の誕生とされ、またゲーテは彼女の面影を「ゲッツ」「クラヴィーゴ」、そして「ファウスト」のグレートヒェンにとどめている。

ウィルヘルミーネ(ミンナ)・ヘルツリープ (1789~1865)
WILHELMINE HERZLIEB
 イェーナの印刷業者フロマン家の養女。ミンナと愛称される。その家はゲーテにとって憩いの場所となっていた。1807年イェーナに来たゲーテは、しばらく見ない間に美しく成長している彼女に心が動揺した。彼女は黒い瞳の哀愁のある表情をした、純潔で内気な家庭的な娘だった。ゲーテはミンナを自制をもって愛したので、ゲーテの気持ちに気づかず、「やさしいおじさま」にとどまった。彼女は二度結婚したが失敗。のちに精神錯乱に陥り病院で生涯を送った。彼女への愛からソネットの連作と、小説「親和力」が生まれた。その女主人公オティーリエは、ミンナがモデルだとされる。

マクシミリアーネ・フォン・ラ・ロッシュ (1756~1795)
MAXMILIANE VON LA RCCHE
 ロッテのもとを去ったゲーテは、エーレンブライトシュタインで枢密顧問官ラ・ロッシュ家に迎えられた。夫人ゾフィー・フォン・ラ・ロッシュは当代の人気女流作家であり、マクシミリアーネ(愛称マクセ)はその長女だった。ゲーテはマクセを愛したが、ラ・ロッシュ夫人はマクセをフランクフルトの豪商ブレンターノの後妻としてとつがせてしまう。結婚後もゲーテはマクセを訪れたが、ブレンターノの嫉妬により訪問できなくなった。「ヴェルテル」のロッテにはマクセの面影も入っている。クレメンスとベッティーナの兄妹はマクセの子供である。

マッダレーナ・リッジ (1765~1825)
MADDALENA RIGGI
 イタリア旅行のさいローマで会い、「電光のごとく速やかに心の底まで深く」愛情を抱いた女性。この「美しいミラノの女性」を囲むサークルで、ゲーテは、牧歌的な日々を送った。自然で明るく、礼儀正しく、好奇心のある人柄にゲーテは惹かれたが、婚約者がいることを知り自制した。彼は彼女への想いをまぎらわすためにスケッチによく出かけた。「アモルとなった風景画家」はその時の詩である。その後、婚約が解消され、その痛手で病気になった彼女をゲーテは見舞っている。マッダレーナへの熱い想い出は、「イタリア紀行」のなかで感動的に語られている。詩「ミニヨンに」もこの女性を歌ったものである。

ウルリーケ・フォン・レヴェッツォー (1804~1899)
ULRIKE VON LEVETZOW
 ゲーテ最後の恋人。1821年の夏もゲーテはマリーエンバートの温泉に行きアマ-リエ・フォン・レヴェッオー夫人の邸に宿泊した。ウルリーケは夫人の長女で、17才だった。毎夏、続けて夫人の邸に逗留したゲーテはますますウルリーケを愛するようになり、74才の彼はカール・アウグスト公を通して彼女に結婚を申し込んだ。しかし結局、レヴェッツォー夫人の同意が得られず、ゲーテは傷心のうちにあきらめた。この体験は「情熱の三部曲」の中、「マリーエンバートの悲歌」に歌われている。ウルリーケは生涯独身であった。

マリアンネ・フォン・ヴィルレマー (1784~1860)
MARIANNE VON WILLEMER
 オーストリアに生まれ、バレーの一座と共にフランクフルトに来て人気の的となる。やがて銀行家ヴィルレマーの養女となり、のちに結婚する。1814年ゲーテがフランクフルトに滞在中、ヴィルレマーとマリアンネの訪問を受け、ゲーテとマリアンネの交友が始まった。彼はヴィルレマー邸や別荘で過ごし、才色兼備のマリアンネに深い愛を覚えるようになった。その頃熱心にオリエント文学を研究していた彼はマリアンネをズライカ、自分をハーテムと呼んで数々の詩を作り、マリアンネもそれに応えて詩を返し、ここにたぐいまれな相聞詩篇が成された。幸福な日々ののち二人は別れ、再び会わなかった。しかしその相聞の歌は「西東詩集」の中でも最も優れて美しい「ズライカの巻」となった。ゲーテの愛した女性の中で詩を交わしたのはマリアンネだけである。

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《家族》

スザンナ・カタリーナ・フォン・クレッテンベルク(1723~1774)
SUSANNA KATHARINA VON KLETTENBERG
ゲーテの母の8才年上のいとこで、ゲーテ家ときわめて親しかった。敬虔派の熱心な信仰を持ち、明るく寛容な平安な精神の境地を保っていた。フランクフルトにおける敬虔派の中心であり、指導者でもあった。ライプツィヒから病気で家に帰り、厳しい父の重圧を感じ、不安定な精神状態だったゲーテは、クレッテンベルク嬢の宗教的感化によって、心身の健康を快復していく。数年後、彼女が亡くなった時、ゲーテは深く心を揺さぶられ、「私にとってあれほど懐かしく、あれほど大事であった人が私の留守中に亡くなりました」とラ・ロッシュ夫人あての手紙に書いている。「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の第六巻「美しき魂の告白」のモデルはこの人である。

J・アウグスト・W・フォン・ゲーテ(1789~1830)
JULIUS AUGUST WALTHER VON GOETHE
 クリスティアーネとの間に生まれたゲーテの一人息子(あとに生まれた四人は早世した)。 名付親はカール・アウグスト公。13才の時、ヘルダーによって堅信礼を受ける。ゲーテにたいへん愛されて育ち、ハイデルベルク大学で法律を学ぶ。その後ヴァイマル公国の国政に関与し、芸術や科学のための施設の監理の仕事でゲーテの第一の助け手となった。母クリスティアーネが亡くなって一年後、オティーリエ・フォン・ポグウィシュと結婚、三人の子供が生まれた。ワルター、ヴォルフガング、アルマの三人の孫をゲーテはこの上なく愛し、忍耐強く、時間のたつのも忘れてよく相手をし、教育に心を配った。1830年、アウグストはエッカーマンとイタリアに旅行中、ローマで客死した。この悲報をゲーテは平静な態度で受けたが、老いたゲーテにとっては耐え難い痛手で、数日後、激しい喀血をし、死の境をさまようことになる。

フリードリヒ・ゲオルク・ゲーテ(1657~1730)
FRIEDRICH GEORG GOETHE
 ゲーテの父方の祖父。マンスフェルトのアルテルン出身で仕立屋となる。ドイツ国内の遍歴、フランス滞在のあとフランクフルトに定住した。仕立屋の娘アンナ・エリーザベトと結婚、フランクフルト市民になる。この妻の死後コルネーリアと結婚。結婚と同時に仕立屋をやめて、「ツム・ワイデンホフ亭」という旅館の主人になり、やがてこの旅館はフランクフルト一流の旅館となった。二人の間の三番目の子供が文豪の父ヨハン・カスパルである。フリードリヒ・ゲオルクは律義な働き者で、亡くなったとき、多くの財産を残した。ゲーテはこの祖父の墓にしばしば詣でたという。

コルネーリア・ゲーテ(1668~1754)
CORNELIA GOETHE
 ゲーテの父方の祖母。仕立屋ゲオルク・ヴァルターの娘。初め旅館の経営者ヨハネス・シェルホルンと結婚。彼の死後、36才でフリードリヒ・ゲオルク・ゲーテと再婚した。彼との間の初めの二人の子供は早世、三番目の男の子がゲーテの父となるヨハン・カスパルである。ゲーテはこの祖母のことを幼かった頃の記憶として、「精霊のような、美しい、やせた、いつも白いさっぱりとした衣服をつけた、穏やかな優しい親切な人」と言っている。夫が亡くなった後、彼女は旅館の経営をやめ、ヒルシュグラーベン街の家を買った。これがゲーテが育ち、現在「ゲーテハウス」としてフランフルト市のみならずドイツが最大の誇りとしている家である。また、ゲーテ4才の誕生日に人形劇の道具一式を贈って、ゲーテの演劇に対する傾倒を育て、ひいては「ファウスト」への関心が生まれるようになったのも、この祖母のおかげである。

ヨハン・カスパル・ゲーテ(1710~1782)
JOHANN CASPAR GOETHE
 ゲーテの父。フリードリヒ・ゲオルク・ゲーテの一人息子。法律を修め、フランス、イタリアに留学して勉学に励んだ。1742年帝室顧問官の称号を手に入れた。1748年、フランクフルト市長の娘カタリーナ・エリーザベト・テクストルと結婚。夫婦の間に六人の子供が生まれたが、ゲーテと妹コルネーリアだけが成長した。この父の性格はきまじめで、強い義務観念を持ち、勤勉質素で厳格だった。豊かな知識、高い教養を持ち、たいへんな教育好きでゲーテ兄妹の教育に情熱を注いだ。のちにゲーテは「父からは人生をまじめにすごす体質を・・・受けた」と歌っている。

カタリーナ・エリーザベト・ゲーテ(1731~1808)
CATHARINA ELIZABETH GOETHE
 ゲーテの母。フランクフルト市長、ヨハン・ヴォルフガング・テクストルの娘。17才でヨハン・カスパル・ゲーテと結婚。ゲーテとコルネーリアの母となる。彼女はゲーテの詩に「母からは快活さと物語る楽しみとを受けた」と歌われているように、年上の気むずかしい夫との結婚生活の中でもいつも明るい気分、敬虔な信仰、自然で素朴な若々しい心を持ち、ゲーテは母のために「歓びの天性」という言葉を用いている。彼女はゲーテや友人たちからアーヤ夫人と呼ばれ慕われた。のちのちまでドイツ人が最も鍾愛する女性である。ヴィーラントは「女性の王冠」と賛えている。また、ゲーテが身分の低いクリスティアーネを妻とした時も、最も早く理解を示し、この嫁をいたわった。

オティーリエ・フォン・ゲーテ (1796~1872)
OTTILIE VON GOETHE
 ゲーテの息子アウグストの夫人。プロイセンの軍人を父とし、伯爵家出身の母との間に生まれた。1817年、アウグストと結婚、ゲーテはこの結婚をたいへん喜んだ。二人の間に三人の子供が生まれた。気位の高い女性でアウグストとは性格が違い、家政は不得手で、夫に対する愛も尊敬も薄かったが、社交に優れ、文学的な理解力を持ち、ゲーテの周りを明るく楽しくすることができた。彼女はゲーテの死まで欠くことのできない話相手であった。夫とゲーテに死別したのち、イギリス人との間に子供を生んだり、ウィーンの社交界で華やかな生活を送ったりしたが、晩年はヴァイマルに戻り、二人の息子と共にゲーテの遺産の散逸を防ぎ、曲折の後、これらを現在のゲーテ協会に伝えた。

コルネーリア・フリーデリケ・ゲーテ(1750~1777)
CORNELIA FRIEDERIKE GOETHE
 ゲーテの妹。ゲーテは一つ違いのこの妹をたいへん可愛がり、幼年時代から青年時代において、喜び悲しみを共にし、最も親しい存在で、唯一の打ち明け相手でもあった。「ゲッツ」を書くように熱心に励ましたのもこの妹である。23才の時、ゲーテの友人シュロッサーと結婚した。彼女は容姿に恵まれず、メランコリックな性質で、ゲーテも「妹は結婚生活より尼僧院長になる方がふさわしかった」と言っているが、やはり結婚では幸福を得られず二児を生んでまもなく若くして亡くなった。妹を愛していたゲーテは非常に悲しみ、「無限の苦痛を残りなく味わった」と嘆いている。

ヨハン・ゲオルク・シュロッサー (1739~1799)
JOHANN GEORG SCHLOSSER
 ゲーテの妹コルネーリアの夫。ライプツィヒ進学中のゲーテを訪れ親交を結ぶ。彼によってゲーテはケートヒェンと出会うことになる。シュロッサーは語学に関する豊かな知識と、落ち着いたまじめな教養のある、文名も高い人だった。彼はコルネーリアを愛し婚約した。ゲーテの父もこの婚約に満足だった。やがてバーデンの宮廷・政府顧問官となり、コルネーリアと結婚した。しかし4年後、コルネーリアは二児を残して亡くなった。彼はその後、ゲーテからも信頼されていた女性、ヨハンナ・カタリーナ・ファールマーと再婚した。

アンナ・マルガレーテ・テクスト (1711~1783)
ANNA MARGARETHA TEXTOR
 フランクフルト出身の高等法院検事、コルネーリウス・リントハイマーの娘。17才の時、ヴェツラーで弁護士ヨハン・ヴォルフガング・テクストルと結婚。生まれた初めの二人の男の子は生後まもなく死亡。二番目の女の子カタリーナ・エリーザベトがゲーテの母である。この祖母が外貌においてゲーテに一番よく似ていたといわれる。彼女の人柄は謙虚で、身分の低い人たちにも優しく丁寧な態度だった。ゲーテの現存する最古の詩は8才の時にこの祖父母に贈った詩である。

ヨハン・ヴォルフガング・テクスト (1693~1771)
JOHANN WOLFGANG TEXTOR
ゲーテの母方の祖父。弁護士クリストフ・ハインリヒの息子としてフランクフルトに生まれる。アルトルフ大学で法律を修め、後に若きゲーテも学んだヴェッツラーの帝国高等法院で弁護士となり、財政訴訟の講義もした。ここでアンナ・マルガレーテと結婚、二人の間に生まれた女の子が、詩人の母となるカタリーナ・エリーザベトである。テクストルはフランクフルトの参審院、また古参司政官を経て、終身の市長に選ばれた。彼は同時に最高裁判所の長であり、参審院会議の議長でもあった。その後帝室顧問官に任命される。彼はきわめて有能で高い人格を備え、人々の尊敬をあつめていた。ゲーテはのちにこの祖父のことを愛情こめて語っている。

クリスティアーネ・ヴルピウス (1765~1816)
CHRISTIANE VULPIUS
イタリア旅行から帰り、シュタイン夫人はじめ周囲の人々の無理解で冷淡な態度に迎えられ、失望と幻滅の中にあったゲーテの前に、ある日、一人の若い娘が現われた。公園を散歩中のゲーテに、兄の就職のための嘆願書を差し出したのである。両親を失い造花工場で働いていたクリスティアーネであった。自然、素朴で生き生きとした可憐なクリスティアーネにたちまち心ひかれ、内縁の妻にする。二人の関係はヴァイマル中の批判をあびたが、ゲーテは彼女を守り通した。素直で家庭的な彼女は、家の中を整え、ゲーテの心身を解放し、幸福を与えた。1806年の10月、フランス軍がヴァイマルに侵入した。ゲーテ家も兵士に襲われ、ゲーテも生命をおびやかされたが、クリスティアーネの勇気ある行動で難を免れた。その数日後、ゲーテは、「長い間わたしに尽くしてくれ、また、この試練のときにもわたしと一緒に耐えてくれたわたしのクリスティアーネ」と教会で結婚式を挙げ、正式の妻とした。クリスティアーネのことは詩「見出しぬ」「ローマの悲歌」で歌われている。二人の間には五人の子供が生まれたが、四人は早世し、成長したのは長男アウグスト一人であった。二人の「ゲーテ夫妻往復書簡」はこまやかな夫婦愛の記録である。


東京ゲーテ記念館
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